▲まぁ、当たっているとは思う。
でも。
それは、人の持つ能力の一面を強調し過ぎだと思える。
以下、新聞から抜粋。
「文芸春秋」(10月号)に掲載された記事、「言ってはいけない格差の真実」を巡って議論が起きている。
筆者は作家の橘玲氏。
「知識社会においては、経済格差は知能の格差だ」と主張。
記事は、雇用対策や貧困など全8つの項目にわたっているが、ネットで物議を醸しているのが「知能は遺伝する」という点だ。
リベラルの「能力は教育によって向上する」という説は「科学的根拠がない」
橘氏は記事で、『言ってはいけない残酷すぎる真実』から引用し、「知能の遺伝率はきわだって高く、論理的推論能力は68%、一般知能(IQ)は77%。知能は7~8割は遺伝するといえる」と説明。
近年、成長とともに遺伝の影響が変化することがわかってきており、IQの面では幼児期から思春期にかけ、成長に従って遺伝の影響が強くなっていく。
そのため、小さい頃に教育を施しても、「ヘッドスタートによる学力の向上は一時的なもの」であり、思春期のころには教育投資の効果はほとんどなくなってしまう、とする。
こうした根拠から橘氏は、日本の教育政策の効果に疑問を呈する。
「ミャンマーやカンボジアのような新興国で、これまで教育の恩恵を受けたことがない子どもたちに初等・中等教育を提供することに大きな価値があるが、日本やアメリカのような先進国で、ばらまき的な教育投資を続けることがどれほどの政策効果を持つかは疑わしい」
教育関係者らは「所得の高い家の子どもが有名大学に多いのは差別だ」として、教育への税金の投入を求めているが、橘氏は「『知能の高い親は所得が高く、遺伝によって子どもの学力が高い』という、説明が可能だ」と否定している。
橘氏は、「能力は教育によって向上する」というリベラリズムの主張は「科学的根拠がない」と否定。
「『知識社会においては、経済格差は知能の格差だ』という事実を受け入れることではじめて、いま日本や世界でなにが起きているかが見えてくる」と主張している。
「背の高さの違いを認めない人はいないけど、知的な差異を認めない人っているよね」
ネットでは、コラムニストのs氏がブログで紹介。
橘氏の主張に賛同した上で、「知能には先天的な差があることを社会全体が認めた上で人間の価値を図る尺度としないということが大切だと思う」とコメント。
その上で、適材適所で多くの人が才能を生かせる社会を目指すべきだとしている。
沢氏の記事に対し、はてなブックマークなどで多くの書き込みが寄せられた。
橘氏の考えに賛成する人も少なくない。
「経済格差は知識の格差という見方は正しいと思うし事実だと思う。認めた上で議論するのが大事」
「背の高さの違いを認めない人はいないけど、知的な差異を認めない人っているよね 個人的な予測では、『ある程度の正の相関がある』だろうと思っていますが……」
このほか、知能の遺伝は認めつつも、平均的所得を稼ぐ程度の知性を得るのは遺伝ではなく「本人の努力次第」、とする人もいた。
「賢くても経済力に恵まれなかった家庭の子はどうなる」という反論も
一方で、橘氏の考えに疑問を示す人も多い。
「知能が高い親が所得が高いとは限らない。教育への税金の投入は、貧困によって才能が機会を奪われることのないようにするために必要だ」
「ポスドク問題を考えると、知能と収入にそれほどの相関があるとは思えません」
橘氏は「能力は教育によって向上する」という考えを否定しているが、「論理的に推論する力は、基本的には技術だと思うので、伝達可能だし、教育や学習で身につけることは可能だと思う」という意見もあった。
ほかには、「可能な限りの底上げをそんな理屈で放棄したらますます両極化するだけ」という指摘も。
「賢くても運が悪く経済力に恵まれなかった家庭の子弟に、教育のチャンスが回らなくなるのは社外的損失」というのももっともだろう。
▲補足、感想など
う~ん。
上掲の議論、ちょぃと、アレコレをいっしょくたにしている感じがする。
少し、整理してすっきりさせたい。
1.人の持つ「知能の高さ・素質」は、遺伝で親 →子 へ大きな比率で受け継ぐ。だから、鳶鷹(とびたか)なんて、めったにあることではないということ。
2.教育というものの働きは、その個人のもつ素質から、どれだけうまく「能力を引き出してやれるか」だけだ。
つまり、100という素質の人間を、教育は、100 → 110 にできるものではない。
100の素質から 80とか90とかを「うまく、引き出してやれる」だけなのだ。
元々の素質が50なら、50以上のものを教育は引き出すことはできないということ。
3.知能が高ければ、報酬の多い職業につくことも可能であろう。
だから、経済格差は知能の格差なのだ—というのが、橘さんの曰くだろうな。
さて、上の論議は当たっていない訳ではない。
ただ、単純化しすぎて、なにか、大きなことを見過ごしている感じがする。
この議論では、なにかドイツの教育方針へつながるようだ。
ドイツでは、12才くらいで、「知能検査」をして、職人になるか、事務職になるか—てなことを決めてしまう—という方向へいきそうだ。
これはいくらなんでも、人生の選択が早すぎるだろう。
筆者は、今の日本の教育制度でいい—と思う。
10代の後半から20代の始めくらいに、「疾風怒濤時代」があって、自分の生き方・方向性に悩むという—ことでいい。
そういう「疾風怒濤時代」を経験しない人間は、どこか薄っぺらい。
例え、80の素質しかなくても、100の仕事に挑むという無鉄砲な人間も出てくるだろう。
そういう混乱の中から、次の仕事というか、新規の職業が生まれてくるのだ。
橘さんの議論は、今の西欧諸国が悩んでいる「階級社会」へつながっているのだろうな。
英国を見るごとく、階級社会なんて、退屈な、躍動感もない社会だ。
<この階級社会というものから、昨年、世界を騒がせたvw事件が発生したのだ。なんせ、綺麗な服を着て事務所に座っているエリートから、油だらけの作業服を着て、エンジンをどうするこうするとさわりまくる人間が出てこないものだから-->
100の素質の人間が、職人になったり、60の素質の人間が100でなければできないような仕事に挑む---そんな社会の方が余程、面白いし、沸き立つような社会をつくることができる。