▲元慰安婦達の証言には、だまされて—などと言葉がでてくる。
でも。
まず、考えても見よ。
若い娘がある日突然いなくなって、騒がない親はいない。
必死で探すし、警察にもかけこむ。
警察だって、誘拐なら、犯罪ではないか。
当然、捜査する。
しかし。
元慰安婦達の証言からは、親がどうした、警察がどうした—という言葉が一切でてこない。
だまされてとか、なんとかといわれて—という話ばかりだ。
この「謎」を解明する説明は、たった一つだ。
親も警察も「承知」していた—ということだ。
両親が、自分の娘を女衒業者へ売り飛ばした—という説明が、唯一の解答だ。
だから。警察も動かなかったのだ。
だまされた—というのは、自分が両親に売り飛ばされた--ということをしらない娘を、慰安所へつれていくときに、あれこれと女衒業者の人間が言った「色んな言葉」であろう。
その肝心な部分を「語らずして」、女衒業者の人間がいったセリフをいかにも「だまされた」風に言っているだけだ。
元慰安婦達は、教育も殆ど受けては居ない。
こんなことをしゃべれば、「あの日本人からお金を取ることができるのだよ」と、韓国人のえらいさんに智慧をつけられて、必死で「被害者ビジネス」に精を出しているのだ。
これはもう、日本人は、「無視」の一手で。
以下、新聞から抜粋。
朝、カササギの声が聞こえて。我が家にもお客さんがいらっしゃるときはそうだった」。
忠清南道で会ったイさん(90)は、温かく歓迎してくれた。
孫娘、保健所の人たち訪ねてくるだけなので寂しいと。
多くの時間は1人で過ごす。
暑さに横になっていたおばあさんは、「訪ねて来てくれてありがとう」と体を起こし、
扇風機をつけてヨーグルトやアイスクリームを出した。
おばあさんは15歳でシンガポールに慰安婦として連れて行かれた。
看護師になりたくて故郷の唐津を離れたが、慰安婦になった。
「15歳で行ったが…看護師をさせるといって金を稼ぐために行った。ところが変な場所に引っ張られて行って。
砲弾の爆発する音が聞こえて…」。
慰安所の運営者は、連れられてきた者たちに説明しなかった。ただ一日40~50人の軍人を受け入れさせた。
逃げたかったが、怖かった。「嫌だといえば殴られ、逃げれば殺されたりしたので、辛くてもこらえなくちゃいけなかった。
恨んで泣いて死にそうだという思いもあったが、今となってはどうしようもない」。
おばあさんは「話せば、胸の内だけが騒がしくなる」とした。
慰安所にいながら一度だけ希望を持ったことはある。
軍の部隊がシンガポールから撤収して台湾に移動するという時だ。
「軍人についてシンガポールから台湾に行った時は、ここから抜け出せるのではないかという考えがよぎったが…違っていた」。
状況は悪くなった。軍人たちは前より乱暴になった。おばあさんは「私はその時死ぬべきだったのに、そうすることができなかった」と。
5年間の末に解放されたが、おばあさんは家族に会いに行くことができなかった。
慰安婦として連れて行かれたという事実が恥ずかしいからだ。
「それを父に話せないから…そんなことをどうして言えるものか。
私は罪人だから」。代わりに自分よりも20歳年上の男性に会って一緒に住み始めた。
心が温かい人だった。
おばあさんが子供を産めないと、夫婦は養子を息子にして大事に育てた。
今は夫も亡くなり、息子夫婦もいない。孫娘がおばあさんの唯一の家族だ。
▲補足、感想など
父に話せない—って。
冒頭でふれた。
両親から高額の前払金と引き換えに女衒業者へ売り飛ばされたものであろう。
恥ずかしい—ではなく、嫌だったのだろうな。
ふ~ん。
韓国の新聞での「元慰安婦」に関する表現が、随分、変化してきた。
直接、日本を、日本軍を非難する形ではなくなったな。
自分の書いた文章が日本人に読まれる—ということを十分に意識して、「ぼんやり」した表現に変えてきたか。
さすがに新聞記者だ。
状況に応じて、文章などどうとでも変えられるか。
まぁ、韓国の変化なぞどうでもいい。
日本は、自分の主張を繰り返そう。
慰安婦は、戦時高給売春婦のことだ。
1945年までの日本と朝鮮半島の間のあれこれ一切合切(上でふれた慰安婦がらみもふくめて)が、1965年の日韓基本条約で完全に解決済みだ。
いまさら、日本はなにをする必要もない。
謝罪? 賠償? なにそれ、美味しいのか?
2014年に日本の戦後レジームは完全に崩壊した。
日本人は、もう、日本にいる朝鮮系洗脳工作員達からの洗脳工作、ミスリードなど、絶対にされない。だまされはしない。
同時に、日本は韓国を見捨て縁切りしたのだ。
関わらない、助けない、教えない—どうてもいい国、それが韓国だ。