▲これは、昭和20年1月から12月までの高見順という作家の日記だ。
当時、38歳くらいかな。
高見順という人については、ウィキペディアをみようか。
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高見
順
(たかみ
じゅん)
経歴
1907年、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性である。
1908年、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、東京市麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたが、それでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。1924年、東京府立第一中学校卒業、第一高等学校文科甲類入学。一高社会思想研究会に入会する。1925年、ダダイスムの雑誌『廻転時代』を創刊する。1926年、校友会文芸部委員に就任する。1927年に一高を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学する。同人雑誌『文芸交錯』創刊に参加、また1928年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙『左翼芸術』に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した『大学左派』創刊にも参加する。劇団制作座の仕事に従事し、劇団員だった石田愛子と知り合った。
1929年、プロレタリア文学への道を進んだ。1930年に東大を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務する。その後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務する。雑誌『集団』創刊に参加、この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚する。
1933年、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放された。妻・愛子は他の男性と失踪し、離婚した。
1935年、饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を『日暦』に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立した。水谷秋子と結婚する。
1936年、『人民文庫』の創刊に『日暦』同人とともに参加する。また、コロムビア・レコード会社を退社、文筆生活に入る。1938年、浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める。
1939年、『如何なる星の下に』を『文芸』に発表、高い評価を受ける。
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まぁ、本書は昭和20年という波乱の1年を克明に記録したものである。
筆者の興味は、昭和20年8月15日をどのように迎えて、どのように日本人・日本社会は変化していったか—という部分である。
まず、8月15日の様子を転記してみよう。
正午に詔書御朗読 → 終戦
新橋の歩廊に憲兵が出ていた。改札口にも立っている。しかし、民衆の雰囲気は極めて穏やかなものだった。平静である。興奮しているものは一人もいない。
今君と事務所を出る。田村町で東京新聞を買った。
新聞売場ではどこもえんえんたる行列だ。その行列自体はなにか昂奮を示していたが、昂奮した言動を示す者は一人もいない。黙々としている。兵隊や将校も、黙々として新聞を買っている。---気のせいか、軍人はしょげて見え、やはり気の毒だつた。あんなに反感をそそられた軍人なのに、今日はさすがにいたましく思えた。
8月16日
北鎌倉駅を兵隊が警備している。
黒い灰が空に舞っている。紙を焼いているにちがいない。東京でも各所で盛んに紙を焼いていて、空が黒い灰だらけだという。鉄道でも書類を焼いている。
今日はとにかく3回飯が食え、やはり、飯はうまいと思った。
昨日、人々は平静だと書いたが、今日も平静だ。しかし、民衆の多くは、突然の敗戦にがっかりしている。百姓は働く気がしなくなったといっている。
私は日本の敗北を願ったものではない。日本の敗北を喜ぶものではない。日本に、なんといっても勝ってほしかった。そのため私なりの微力はつくした。いま、私の胸は痛恨でいっぱいだ。日本及び日本人への愛情でいっばいだ。
8月19日
敗戦の文字が今日はじめて、新聞に現れた。
町内会長から呼び出しがあって、婦女子を大至急避難させるようにと言われたという。敵が上陸してきたら、危険だというわけである。
8月25日
夜、久米家で相談会。スキ焼の会食。---久しぶりのスキ焼。栄養が本当に骨身に染み込んでゆく感じだった。
---やせたねとこの間、里見さんにいわれた。頬をなでてみる。なるほどやせた。
早くスキ焼、ビフテキ、蒲焼といったものを自由に食いたい。そうして思う存分体を酷使して、頑張りたい。
8月28日
朝比奈さんから話をきいた。六区が戦前同様の賑わいであること。警視庁から占領軍相手のキャバレーを準備するように命令がでたこと。「淫売集めもしなくてはならないのです。いやどうも」「集まらなくて大変でしょう」「それがどうもなかなか希望者が多いのです」
9月2日
直ちに企画会議。現代日本文学傑作全集をいったものの顔ぶれ、作品の検討。鴎外・漱石に遡ってはという意見もあったが、藤村、秋声にとどめようということになった。
牛肉が氾濫している。一斉に密殺したらしい。
横浜に米兵の強姦事件があったという噂。
「負けたんだ。殺されないだけましだ」
「日本兵が支那でやったことを考えれば--」こういう日本人の考え方は、ここに記しておく価値がある。
9月15日
今日は鶴岡八幡の例祭、賑やかなはやし、人出。平和が再び来た—の感が深い。
参詣した。神楽をやっている。女子供が石段いっぱいに腰掛けて、のどかに神楽をみている。
まことの平和だ。まことに日本人は平和を愛する質朴な民なのだ。
10月20日
スカート姿の女が少しづつ街に現れた。キモノ姿はまだ見かけない。
10月24日
大船で乗り換え、アメリカ兵と連れ立った日本の若い女が、相手を歩廊に残して一人で車内に入った。車窓から顔を出して、楽しそうに声をあげているアメリカ兵の相手になっていたが---
いわゆる特殊慰安施設の女らしく思われた。
11月19日
18日、早慶野球戦復活、また、終戦後初の競漕大会が隅田川コースで行われた。ボートレース復活祭という名。
11月22日
もんぺでないキモノを街で見かけるようになった。キモノがそう眼をひく感じではなくなりました。
男の洋服も戦時の「自粛」ないし「防空服装」から脱しました。
11月24日
横浜駅で、一見して女郎とわかる女が、チュウインガムをさも得意気にかみながら、人のいっぱいいる歩廊を傍若無人にあつちへ行ったり、こっちへ行ったりしていました。アメリカ兵にもてて得意な気持ちなのでしょう。
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日本人が歴史的な経験からもつ「災害慣れ」といったものを感じる。
敗戦から半月後には、日本文学全集を発刊するという計画が動き始めるのだ。
敗戦後1月での鶴岡八幡の例祭の様子をみてほしい。
あっという間に、戦時 → 日常 へと変化していくのだ。
戦争の結果がどうあれ、毎日、生きて動いていればお腹もすくし食べなくちゃならない、排泄だってしなくちゃならない。どっかで寝なくちゃならない---と自然と日常へ帰っていくということなのだな。
そして、お祭りがあれば見に行かなくちゃ—と日常へ帰っていく。
また、インフラがなんの変化もないことに注意してほしい。鉄道、電気、水道、電話、新聞の宅配等が終戦のどうたらなんて、なんの関係もなく、そのまま従前通りに稼働しているのだ。
また、インフラがなんの変化もないことに注意してほしい。鉄道、電気、水道、電話、新聞の宅配等が終戦のどうたらなんて、なんの関係もなく、そのまま従前通りに稼働しているのだ。
なるほどなぁ。
これが日本人の生活なのだな。
日本の千年を超える長い歴史というものが、自然と日本人の生活態度というものを「日常」へと誘っていくということか。