▲天皇陛下は、天皇誕生日前に、コメントを発表された。
筆者は、退位のタイミングにおいて、日本の戦後レジーム(日本人弱体化工作体制)というものが完全崩壊していることをなにより嬉しく感ずる。
今上天皇は、昭和天皇ができなかったことを、どうしてもしなければならないと考えておられたのだろうなぁ、と感じる。
昭和天皇は、明治憲法の下に即位されたし、先の大戦へも昭和天皇の名で、参戦することになったものであろう。
先の大戦において、実に300万人近い日本人を「死に追いやる」こととなった。
東南アジア、太平洋上の諸国になお多くの日本人兵士の遺骨が残存したままだ。
昭和天皇は、自らの「名」の下で、戦った兵士達の遺骨に対して、表立って慰霊ということはなかなかできなかったのだろうな—と感ずる。
終戦時の昭和天皇のお姿をみよう。
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2015/01/05(月)
外交官だった白鳥敏夫が加わった大政翼賛会は、時の首相が総裁を兼任した。しかし、一九四五年四月に鈴木貫太郎が首相となった直後、
翼賛会は本土決戦に備えた国家総動員態勢のため解散する。
「一億総玉砕」による徹底抗戦。そんなスローガンが身近になるほど、戦況は
逼迫(ひっぱく)していた。
天皇に請われて首相となった鈴木は「終戦内閣」を意識していた。
しかし、軍部の反発を招かないよう表向きにはひた隠しにしたとされる。
内閣は七月、日本に無条件降伏を求める米英中のポツダム宣言を「黙殺」。
迎えた八月六日、米軍は広島に原爆を投下、八日にはソ連が
日本に宣戦した。鈴木ら重臣は、終戦について天皇の意思を仰ぐ御前会議に向けて動きだす。
◆2度の御前会議
野田市関宿町の鈴木家の敷地に戦後、建てられた鈴木貫太郎記念館には、最後の御前会議を描いた油絵が飾られている。当時の写真が
残されているはずもない。
画家の白川一郎が二十余年の歳月をかけ、史実に基づき描き上げた大作だ。
御前会議は二度行われた。一度目の八月十日、ポツダム宣言受諾の条件をめぐり首脳陣の意見は二つに割れた。
「かくなる上は甚だ畏れ多き
極みではありますが、聖慮(せいりょ)をもって決定としたい」。
鈴木の申し出に、天皇は受諾の考えを示した。その理由には、米軍の上陸が予想
された千葉・九十九里浜での対策の遅れも含まれていた。
「聖断」下る-。
天皇は八月十四日、再度の御前会議で「戦争を継続することは無理と考える」とあらためて明言した。「少しでも種子が残りさえ
すれば、さらにまた復興という光明も考えられる」。そう諭す言葉に出席者は涙した。
聖断による終戦は、指導者の一部で以前から考えられていた。実行の時期や手法をめぐっては歴史的な評価が分かれるところでもある。
しかし、関宿町の郷土史家、黒沢五郎(72)は「御前会議は本来、儀式的なもの。
聖断は強硬派を抑えるための秘策だった。天皇とあうんの
呼吸で通じた貫太郎さんだからこそできたのではないか」と語る。
◆天皇の感謝に落涙
ただ、この後も一波乱があった。敗戦を納得しない陸軍の将校らが宮城(皇居)を一時占拠。
天皇自ら終戦を伝える「玉音放送」の録音盤を
奪おうとする事件が起きた。鈴木は間一髪で難を逃れたが、東京の私邸を焼かれた。
そして迎えた十五日正午。「朕(ちん)は共同宣言を受諾する旨通告せしめたり…」。
天皇の声がラジオで全国に流れた。日本人だけでも
三百万人以上が犠牲になった戦争が終わった。
鈴木の長男で、秘書官としても鈴木を支えた一(はじめ)は、終戦の日の鈴木の様子を著作で描いている。
家に帰った鈴木は「陛下から
二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』とのお言葉をいただいた」と感涙にむせんだ。 (敬称略)
--ここまで--
その慰霊というものを、今上天皇は、どうしてもなさりたかった。
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★戦後70年となる2015年、皇后・美智子さま(79才)は
パラオなど太平洋の島嶼国を訪問する予定を検討している。
パラオをはじめとするマーシャル諸島やミクロネシア連邦は、
第一次世界大戦で占領した日本が、終戦までおよそ30年にわたって統治。
多くの日本人が移り住み、「南洋庁」が置かれ、パラオは太平洋戦争での軍の拠点となった。
しかし、終戦前年、アメリカ軍の侵攻を受けて、パラオではペリリュー島など
南部の2つの島で激しい地上戦となり、日本軍は全滅、1万1000人が亡くなった。
そ
してパラオ、マーシャル、ミクロネシアの3か国で犠牲となった日本人は軍人だけでも4万6000人を超すといわれている。
皇室記者はこう話す。
「2005年にサイパンを訪問された際も、両陛下はパラオを訪問されたい意向をお持ちでした。
しかし、パラオはインフラも整備されてなく、政府専用機の離着陸が難しかったり、
ホテルも相応のものがなく、警備上の問題もクリアできなかったため、見送られたわけです。
今回もインフラ面などが整備されたわけではないですが、
両陛下の“今度はどうしても”という強いご意向によって、パラオ訪問に向けて宮内庁も政府も動き出したわけです」
『戦なき世を歩みきて思ひ出づかの難き日を生きし人々』
かつて陛下は、戦争の苦難に思いを馳せられ、こんな歌を詠まれたことがあった。
皇室ジャーナリスト神田秀一氏はこう語る。
「両陛下にとって“祈りの旅”は、何事にも代え難い使命なのでしょう。
たとえ一度訪問されたからといっても、それだけですべてが解決するわけではないと
お考えなのだと思います。ですから、“終わりはない”わけです。
どんなにご体調が悪くても、最後まで続けられる強い覚悟がおありなんです」
“皇室は祈りでありたい”――その思いを胸に刻まれ、
陛下を支えてこられた美智子さま。両陛下の旅はまだまだ終わらない。
★隊員さんの話では、戦後~平成にかけて硫黄島の心霊現象は
壮絶なものだったらしい、
夜中に行進する兵隊なんかは
当り前で、中には夜な夜な水を求めて徘徊する黒焦げの兵隊や
窓の外に体の一部が無い兵隊が恨めしそうに見ていたりってのが
毎日あったんだと。
恐らく彼らの中では戦争はまだ終わって無かったんだな。
だけど、平成6年2月に天皇陛下が硫黄島を訪れた際に、慰霊碑に鎮魂と
日本を守る為に命を犠牲にして戦ってくれた事への感謝の意を捧げると
その日を境に幽霊がピタリと出なくなったらしいんだ
まあこの辺はよく聞く有名な話だよ。
--ここまで--
▲補足、感想など
大事なことを繰り返したい。
今上天皇の退位というものが、「戦後レジームという日本人弱体化工作体制が完全に崩壊後」になされることになったことをなにより、筆者は嬉しく思う。
戦後レジームの完全崩壊とは、「先の大戦の戦後」の終焉を意味する。
アメリカからの、日本にいるevenki族工作員からの「卑怯でかつ奇妙な妨害・謀略・ミスリード」から、解放されたことを意味する。
上の記事に対する日本人の書込みを転記する。
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203:
>>1 ありがたい御言葉だなあ
次の世代も平和で栄えるように気を引き締めないと
陛下お誕生日おめでとうございます
49:
寂しいな
54:
天皇陛下、本当にありがとうございます。
65:
象徴天皇としてお務めなされたんだなぁ…
上皇に即位されたらゆっくりお休みください
116:長年お疲れ様でした。
183:
さっきテレビで陛下の会見を拝したけど
涙を堪えられてドラマチックな会見だった 天皇陛下万歳
262:
動画見たら涙出た
284:
陛下には感謝しかありません
287:ニュースみて泣いた
天皇陛下、おつかれさまでした
319:私というものを滅して凄まじい激務を老齢になるまだそつなくこなし続け
日本と諸外国の友好のために働き続けてきた偉大な人物だ
まじ尊敬するわ
426:
あたたかいお言葉だった 気苦労が半端なかったと思う
余生を心穏やかに過ごせますようお祈り申し上げます
457:平成は災害が多かったけど
陛下に励ましで元気になった人がどんだけいるか
本当に立派な天皇だったと思う
858:陛下
ご自愛ください
225:
皇后さまを第一に考えられていることがよくわかる御会見でした。
長い間ご苦労様でした。 天皇陛下、万歳
419:
天皇陛下万歳 皇后陛下万歳 両陛下のご長寿を祈念致します
1.
天皇陛下万歳!
2.
一般参賀感動しました!
4.歴史上の皇位として上皇が復活された歴史の中で生きるのも幸運だと思います
5.
人としての在り方をお示しくださっていた存在であったと、感謝申し上げます。
--ここまで--