※天皇陛下に英国最高位のガーター勲章 上皇陛下に続きガーター騎士団の一員に2024.06.26 両陛下、英国の歓迎式典に 国王夫妻と馬車でパレード 両陛下は同宮殿で、国王主催の昼食会に出席した後、王室に伝わる日本ゆかりの品を見学。昼食会後、天皇陛下に英国最高位のガーター勲章が贈られた。
<ネットの声>
41: >>1日本の天皇がイギリスの騎士団員・・・なんか納得できない。
116: >>1天皇もエドワード7世以降の歴代イギリス君主に対して、日本の最高勲章である大勲位菊花章頸飾を贈与していると書いてあるけど?国際儀礼を知らない朝◯人なのか?
6: まぁ当たり前だわな。
10: 天皇皇后両陛下 歓迎の昼食会に「ガーター勲章」授与される。ガーター勲章とはイギリス王室によりますと、ガーター勲章は1348年、当時のイングランド国王、エドワード3世がアーサー王伝説の「円卓の騎士」にならって創設した、イギリスで最も歴史がある勲章です。勲章の授与には騎士団の一員に加えるという意味があり、勲章には騎士団のモットーである「悪意を抱く者に災いあれ」という文字が中世フランス語で書かれています。受章者は君主がみずから選び、イギリス王室のメンバー、大きな功績が認められたイギリス国籍の保持者、そして外国の君主など、3つに分類されます。このうちイギリス国籍の保持者としては、これまでチャーチル元首相やサッチャー元首相などが受章し、現在はメージャー元首相やブレア元首相などが名前を連ねています。また、外国籍では現在ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、スペイン、そして日本の6か国の合わせて8人の君主などが受章しています。原則としてキリスト教国の君主などが対象ですが、日本は日英同盟の締結をきっかけに1906年、明治天皇が初めて受章したあと、1912年に大正天皇が、1929年に昭和天皇が受章しました。このうち昭和天皇は第2次世界大戦を理由に1941年に受章を剥奪され、その後、1971年のイギリス訪問の際に回復されました。また、上皇さまは在位中の1998年に受章されました。この際、当時のエリザベス女王の夫、フィリップ殿下が第2次世界大戦で日本軍の捕虜になった元兵士などの反対を背景に難色を示したと報じられ、フィリップ殿下がみずからそうした報道を否定する声明を出す事態となりました。ロンドン郊外のウィンザー城では毎年6月、敷地内のセントジョージ礼拝堂でガーター勲章の受章者による式典が行われ、受章者は勲章をつけ、マントを羽織った正装姿で音楽隊や衛兵とともに礼拝堂まで行進します。
11: イギリスでは最高位かどうか知らんけど天皇が他国の勲章貰うって下に見られてない?
16: >なお、天皇もエドワード7世以降の歴代イギリス君主に対して、日本の最高勲章である大勲位菊花章頸飾を授与している。
38: >>16儀礼なんだな。
67: >>11日本からみたらそう思われる。あっちからみるとちょい違う意味合い。
13: 字面だけ見ると英国に忠誠を違ってる属国の君主みたいな扱いに見えるんだけど…
19: >>13だから君主が他国の勲章をもらうときは同格の勲章を授与する。そうすることで同格になる。
36: >>19同格なんてとんでもないという意見はないの?
45: >>36国と国は同格そしてエンペラーとキングに序列があるのは確かだが、今回のケースは招待したイギリス国王とそれに応じた陛下の構図、つまりホストとゲストという構図があるだけ。
47: >>19それはそうなんだけど、日本の最高勲章は大勲位じゃなかったような…
25: 円卓のメンバーってことか。お互い授与しあってるから形の違う同盟みたいなもんだな。
26: 世界の王室格付けで日本の天皇陛下が1番上のエンペラーだからな。
28: なんで英国の騎士にされるんだよ日本は属国じゃねーぞ。
32: マジレスですまんけど、名誉称号だよ。与えた方が上とか貰ったほうが下とかそんなのないた だの儀礼。
43: >>32いや、そりゃ分かってるけどさ字面がどうもね。
33: 相互に最高勲章やってるの知らんやついるんだな。
52: 非キリスト教国としては破格の扱いなんよな。
56: 明治天皇が最初に受けて以来の伝統だな。大正天皇も昭和天皇も受けてる。
57:明治天皇も1906年に殊勲されてた。
59:セントジョージ礼拝堂には天皇家の菊の紋章があるからな。
62: >>59エリザベス女王の葬儀が行われた場所だね。中継でこれが映ってて、「なんで日本の菊花紋章があるの?」と話題になってた。
63: >>59なんか、にほんだけシンプル過ぎじゃね。日の丸もそうだけど。
83: >>63見つけやすいけどシンプルだね。
84: >>63ほかは領主だからこまこま由来がくっつけてあるけど、日本は国王だからじゃね。
80: 菊の御紋の紋章はかっこいいな。
98:お互いの国の最高勲章を送りあって付け合うのが伝統儀礼であって最高のリスペクト。
101: 日本の勲章は明治以前は存在しないからな、王族にふさわしい格式でよろしいんじゃないか。
✦英国か、やはり、まず、薩英戦争にふれざるえないな。
✦薩英戦争 薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年7月2日 – 4日〈新暦: 1863年8月15日 – 17日〉)は、薩摩藩と大英帝国 (イギリス)の間で起こった戦闘である。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。イギリス国内ではこの戦闘を単に「Bombardment of Kagoshima」(鹿児島砲撃)と呼んでいる。鹿児島では城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため、まえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる。
■戦闘の結果 薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。
✦長州からの密出国の留学生を受け入れてもらった。
※海外「日本人との差は何なんだろう…」 明治維新を成し遂げた日本にアフリカから羨望の声 法制度、中央官制、地方行政、経済、金融、産業、文化、教育、外交、宗教、軍隊、思想政策など、様々な要素が改革・近代化された明治維新。新たな制度を導入する事で生じた矛盾を孕みながらも、全体的には成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進され、日露戦争の勝利後には、当時の先進国である五大国の1つにまで上り詰める事になります。今回の翻訳元(フランス語圏)では、特に長州五傑にスポットが当てられており、ヨーロッパに留学した彼らが日本に戻り、国の発展のために尽力した事が伝えられています。読者のほとんどはフランス語圏のアフリカ人という事で、欧米列強の植民地にならず、近代化に成功した日本に対して、称賛と羨望の声が数多く寄せられていました。ご紹介します。
翻訳元■■
■ 明治維新の話は面白いよねぇ。日本人の意志の強さは本当に凄い。 +2 国籍不明
■ 結局、国を心から愛する男たちがいたからだろ。 +5 アルジェリア
■ 日本人には共通の理想あったんだよ。そして国民が同じ言語を話していたのも大きい。 ブルンジ
■ 俺たちは外国の言語を学ばなくてはいけなかった(アラビア語、英語、フランス語などなど)。一方で日本には独自の言語がある。欧米列強で出版された本を翻訳して、自分たちの言葉で読む事が出来たんだ。 +6 ギニア
■ 言語は別に関係ないと思うけどなぁ。発展出来なかった理由は、もっと他のところにあったと思うぞ。 +3 カメルーン
■ 結局は教育だよ。今自分は日本で暮らしてるけど、日本人は幼い頃から国を大事にする事を学ぶ。。 +2 コンゴ共和国
■ でも日本は高齢社会で人口も減ってる。逆にアフリカは世界で最も人口増加が著しい地域だ。アフリカこそ未来の大陸だと俺は思ってる。 ジブチ
■ 今の日本を作ったのは、規律と敬意の文化だと思う。 +5 国籍不明
■ 教育が国の命運を分けるんだって事が分かるなぁ。 +6 米在住
■ もしこっちにも日本の志士のような人たちがいれば、一部の欧州の国を超える事も出来たかもしれないのに。 カメルーン
■ 日本には偽善ではない、本物の愛国の志士がいた。あの国が成功した理由はそこだよ。 アルジェリア
■ 19世紀末ごろ、マダガスカルあたりには、日本と同じくらいの文明度と経済力があったんだよ。 +4 マダガスカル
■ 日本は俺たちが信仰している神よりも、はるかに強力な神々を信仰していたのさ。 カナダ在住
■ 日本の最大の偉業は、近代化を受け入れた一方で、自分たちの文化やライフスタイル、信念や宗教を一切捨てなかった事だと思う……。 +3 アルジェリア
■ 日本は戦後に灰の中から復活したわけだが、あんな奇跡を起こせる国は地球上に僅かしか存在しない! ギニア
■ 日本人は自分たちの国を愛してる。アルジェリア人は自分の国の事よりも、湾岸諸国やフランスの方が好きじゃないか。 +2 アルジェリア
■ 日本は近代化を成し遂げながらも、自分たちの文化も残したのが羨ましい。 +11 国籍不明
■ 俺が思うに、日本人という集団の天才性は、伝統と近代を融合させた点にあるんだ。 +3 カメルーン
■ 個人的には、「意志の力」としか言えないと思う……。 +2 モロッコ
■ 日本人といえば「規律」だろ?それが彼らに成功をもたらした要素だよ。 +13 アルジェリア
■ 日本人は世界にとって模範だよね。俺は彼らの事がずっと大好きだったんだ。文化的で、礼儀正しくて、謙虚だから。 +14 ガボン
■ 日本は欧米から当時のシステムを移植したわけだけど、自分たちの文化に適応させたという点が、彼らの凄いところなんだよ。 +12 ガボン
■ 日本人と俺たちとの差は何なんだろうな。俺はそれがずっと疑問だったんだよ……。 +2 国籍不明
■ 日本人は故郷、文化、伝統に敬意を払う。昭和天皇も国民に敬意を払っていた。一般の教師に対して帽子を取って挨拶をする様子を、前に映像で観た事があるんだ。 +18 モロッコ
■ 教養と祖国への愛。日本が成功した鍵はその2つだと思ってる。 +95 国籍不明
■ ヨーロッパに渡ったサムライたちは、実際の欧州の姿を見て全てを悟ったんだろうな。いまだに近代化の意味を理解出来てない、俺の国の人間とは大違いだよ。 +29 アルジェリア
■ 日本人は発展したからといって伝統を捨てなかった。伝統は尊重すべきものだと分かっているから。そのあたりが僕たちとは違うよ。 +14 モロッコ
■ 日本人は本当に不思議な人たちだよなぁ。日本の歴史はまるでコミックみたいに面白い! +4 セネガル
■ 国に対する無条件の愛がないと、日本の志士たちのような決断は出来ないはず。カメルーン
■ 留学した人たちは真の愛国者だったね。彼らの目的はただただ祖国を近代化させる事だったんだ。 +3 国籍不明
✦長州五傑とは、井上馨(密航当時28歳)、遠藤謹助(同27歳)、山尾庸三(同26歳)、伊藤博文(同22歳)、井上勝(同20歳)の5人。彼らは攘夷運動が活発化する中、西洋文明の実像を知るべく、1863年、国禁を犯して清国経由でイギリスへと渡り、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンなどで学びました。この5人のグループは、長州ファイブ(Choshu Five)として、ロンドン大学にも顕彰碑が建てられています。今でも日本とUCLの化学科は交流があるんだよ。毎年数人の日本の化学者が来て、5人の功績のレクチャーをするんだ。それにイギリス留学から150年が経った2013年には、当時の日本の首相からウィリアムソン教授に感謝状などが贈られてる(額縁に入れられてメインエントランスに飾られてる)。+54 イギリス 写真の説明:遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右) 長州五傑は、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。彼らは、ロンドン大学の講義の合間に、造幣、造船、鉄道敷設などの現場を精力的に視察し、最新の技術や知識を吸収して帰国後それぞれの道を歩みます。伊藤博文は「内閣の父」、井上馨は「外交の父」、遠藤謹助は「造幣の父」、山尾庸三は「工学の父」、井上勝は「鉄道の父」と称されたことからわかるように、いずれも各分野で先駆的な功績を上げ、日本の近代化に尽力した。
✦最後に、英国発の産業革命について、軽くふれよう。
※1770年、リチャード・アークライトが水力紡績機を開発した。綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小型ではなく、人間の力では動かない大型の機械だったため、動力源に水力が使われた。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据えつけて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これにより大量生産が可能になり、立地に制約がなくなった。しかし、紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業の始まりとなった。そしてこれらの特徴をあわせ持ったサミュエル・クロンプトンのミュール紡績機が1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとして生まれたのがミュール紡績機であった。ミュールとはラバのことで、要するにウマとロバの長所をとったという意味である。これらの発明によって紡績過程は大幅に改善されたが、織布過程は飛び杼以来目立った改良がなく、生産能力が不足していた。このため、これを受けてエドモンド・カートライトが蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明した。これはその名の通り世界初の動力式の織機であり、これによってさらに生産速度は上がった。原綿の供給においても、1793年にアメリカのイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明したことで梳毛が大幅に改良され、大量の原綿が供給されることとなった。紡績過程においてはミュール紡績機は長らく主力であり続けたが、多くの人々によって常に改良がなされており、1825年にリチャード・ロバーツによって完全に自動化された。これらのように、問題点の改良が各地で行われた結果として生産性が加速度的に向上することとなった。問題点の解決が生産余剰を生み出す、または前行程の生産増大を促し生産効率を揚げるという相乗効果の中で、イギリスの綿織物の生産は激増し、品質も改良されて全世界に輸出できるものとなっていった。かつてイギリスの綿織物は製品をインドから運んでいたが、その関係は逆転していく。1802年から1803年にはとうとうそれまでイギリスの主力産業であった毛織物の輸出を上回るようになり、綿織物は新たなイギリスの主力産業となっていった。
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