2012年1月8日日曜日

映画、山本五十六—感想。

▲山本五十六(いそろく)聯合艦隊司令長官は、大日本帝国海軍の正真正銘のエリートである。
 エリートであるが故に、他人よりも先が見え、先のことを理解することができた。

 それ故に、真珠湾攻撃の立案者でもあった。

 まず、ウィキペディアで、山本長官の履歴をおさらいしてみよう。

--ここから—

 1884年(明治17年)4月4日、新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。父親の年齢から「五十六」と名付けられた。当時は高野五十六。
 長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業。

 軍人を目指し、「武士の家の子は武士になる」と語っていた。
 1901年(明治34年)に海軍兵学校に次席入校。

 日露戦争中の1904年海軍兵学校を席次11番で卒業。
 1905年(明治38年)1月に巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加。
 1909年にアメリカに駐在、1911年に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。

 1913年(大正2年)海軍大学校に入学。1916年(大正5年)12月、海軍大学校を卒業。
 1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。米国の油田や自動車産業、飛行機産業に強い印象を受けている。

 1921年(大正10年)7月19日に帰国後、海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる。
 1922年(大正11年)、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察した。
 1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再び米国に滞在する。

--ひとまず、ここまで—

 さて、山本司令長官は、真珠湾攻撃そのものを計画した人であるが、経歴でみるとおり、アメリカでの駐在年数も長く、アメリカの実力も充分に知っていた。
 合理的な考え方のできる理性的な軍人であろう。
 
 しかし、決して、戦争を忌避している人間ではない。
 アメリカのとの戦争をできるだけ避けようと考えてはいたが、国として争わざるをえないなら、死中に活を求めることも辞さない人だったことが、開戦にいたる経緯を読んでいると分かる。 

 なお、小泉さんが米百俵の故事について話したことがある。

 戊辰戦争の時、長岡藩は河井継之助の指揮の下、幕府側として戦い、長岡の町は焼かれた。
 戦後、長岡の友藩から送られた米百俵をお金に替えて、学校をつくり、教育に投じた…という話だが、この山本五十六こそ、その時、米百俵のお金で教育を受けた世代なのだ。

 
 --真珠湾攻撃に至るまでの山本司令長官の言動など ここから—

 1928年8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務め、将来の海軍は航空主兵となること、対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべきと発言。

 山本は、「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言。

 外国機の輸入と研究に積極的であったが「外国機の輸入は我航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学の試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え」と技術者達を激励している。

 山本の高い見識と指導力は、日本海軍の航空発展に大きく貢献した。

 この頃、日本も大和型戦艦の建造計画をたてる。

 山本は反対論を唱え、艦政本部と対立した。

 山本の航空主兵論と中村良三の大艦巨砲主義論の対立は結論が出ず、仲裁で昭和11年7月に大和型2隻の建造が決定。

 1936年(昭和11年)11月25日、日独防共協定が締結、海軍次官に就任。

 盧溝橋事件が発生して支那事変(日中戦争)に拡大。

 日本の南方進出を見込んだ布石であったが、東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった。

 山本は日独伊三国軍事同盟の締結に対し、最後まで反対した。

 ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結。

 昭和14年8月20日、 山本は連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任。

 米内は山本が暗殺されることを恐れ、安全な場所へ避難させる人事を行った。

 アメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、福留繁聨合艦隊参謀長にハワイ奇襲作戦について語ったこともある。

 1940年(昭和15年)、第二次世界大戦緒戦でナチスドイツはフランスを含めヨーロッパ全域を掌握する。

 同年2月下旬の手紙で山本は三国同盟について「唯あんな同盟を作って有頂天になった連中がいざと云う時自主的に何処迄頑張り得るものか問題と存じ候。当方重要人事異動の匂いあり唯中央改善と艦隊強化も得失に迷いあり候」と懸念していた。

 日本はドイツへの接近を強め、日本海軍も親独傾向を強めていた。

 山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみ。

 2ヶ月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印した。

 三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本と米国・英国の関係は急速に悪化していった。

 当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している。

 1940-1941年初頭にかけて山本が真珠湾攻撃を検討していたことが伺える。

 一方、真珠湾攻撃の作戦立案は大西瀧治郎第十一航空艦隊参謀長と源田実第一航空戦隊参謀に一任。

 9月12日、近衛首相に日米戦の見通しについて語り、戦争になった場合は山本自らが飛行機や潜水艦に乗って1年から1年半は存分に暴れてみせると。

 山本は米国と戦う準備を進めた。
 勝利のためには航空機増産しかないとの信念に従って、零式艦上戦闘機と一式陸上攻撃機各1000機増産を求めるが、軍令部第一部長宇垣纏少将に拒否。

 「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、ハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している。

 11月下旬から12月上旬にかけて、家族や親しい人々にそれとなく別れを告げた。

 真珠湾攻撃に対しては、宣戦布告を事前に行うことを軍令部に対し念押ししていた。12月2日に上京した際にも軍令部に何度も確認している。

 --ここまで—

 長い引用となった。

 えっと、昭和16年の段階で、日本の総人口はどのくらいだったか。
 昭和20年で七千万人くらいという記事があったから、ほぼそんなものであろう。(そうか、昭和20年の段階で、朝鮮半島と台湾、樺太等が外れたか、一概に比較できないのだな)

 七千万人の日本人を戦争に駆り立てたエネルギーの方向性は、国民の大部分が米英蘭のやり方に我慢ができなくなったということであり、少数のエリート達がちょっとアメリカを知っているとか、ちょっとイギリスを見たから…では方向を変えることはできないということであろう。

 このあたりだな—--核心は。

 世界中のことが、簡単に分かり始めたのは、インターネットが普及しはじめてからだ。
 すると、せいぜいここ10年のことか。

 今から70年も前であれば、簡単に外国のことなど知りようもなかった。
 新聞というものが、国民の意見を決める最大の要素だった。

 日本人も外国のことが分からず、外国からも日本人というものがどのようなものか分からない…そういう時代なのだな。

 さて、この「山本五十六」という映画の核はなんだろうか。

 エリートが、7千万人という集団の勢いに呑まれて、心ならずも「真珠湾攻撃」を立案・実行した…という印象を与えたいのかな。

 う—ん、違うなぁ。

 山本さん自身が、日清戦争 →日露戦争 と戦い続けてきた言わば古強者だ。
 敵を知り、己を知れば…という兵法があるが、山本五十六はアメリカという敵を十二分に知り、自軍の貧弱さをも充分に知っていた。

 そう考えると、この「真珠湾攻撃」の立案は、織田信長の「桶狭間の合戦」に似ている。
 信長は、自軍の貧弱さを、今川軍の強大さを充分に知っていた。桶狭間の戦いは、僥倖に僥倖が重なったような曲芸的な勝ち方であった。以後、信長は充分な勢力を揃えてでなければ合戦はしていない。

 山本司令長官は、貧弱な日本の国力では、せいぜい1年位しかもたない…と考えていたのだろう。
 1年位で、なんとか講和にもちこめないか…と文官には期待しつつ、軍人としては己の貧弱さを認めて、死中に活を求めるという兵法を採用したということか。

 その意味で、山本五十六は、最後までサムライとして生きたということなのだろうなぁ。(映画で、戊辰戦争の時、五十六のジイサマが官軍に斬り込んで討ち死にした…というエピソードを語っていたなぁ)

 最後に山本五十六の言葉をご紹介したい。

--ここから—

 苦しいこともあるだろう
 言いたいこともあるだろう
 不満なこともあるだろう
 腹の立つこともあるだろう
 泣きたいこともあるだろう
 これらをじっとこらえてゆくのが
 男の修行である

--ここまで--