▲今年も同じ文章を使うことにする。筆者がこのブログを書く理由は、「目の前を流れてゆく現象の核心を押さえれば、暮らしていく上でのリスクを減らし、チャンスをつかめる」「核心を押さえることで、流れ去る現象の陰に潜んでいる新しいニーズを発見できる」ということだ。何事につけて、年齢を重ねる毎に、より安全側・リスクが少しでも低い側を選ぶようになった。加齢(なにより骨折を恐れている)を考え交通事故に遭遇しないように道路を歩くにも用心深くなった。庭の樹木の高さを脚立を使わない程度の低さに調節するとか、電気、ガス、留守、防犯等に最大限、用心をするようになった。それでいいと思うし暮らしていく上での「重要な智慧」だとも思う。書き始めた頃にくらべ、文章の量が増えたのは、データベースソフト(筆者はファイルメーカーというソフトを使っている)のせいだ。データベースソフトのおかげで、多少は「幅広く」「深く」文章が書けるようになった。最近、頓(とみ)に思うことは、この世界というものが「合理性のより高い世界」へ収斂しつつあるということだ。原因は、世界的なネットの普及だ。各個人がてんでバラバラに主張し、ものを言うのだが、ネット上で簡単に比較・検証できてしまう。ついでながら、戦後レジームという日米韓の結託した日本人弱体化工作体制が完全に終焉したのも、ネットの普及によってのことだ。要するに「比較してみて合理性のより高いものいいが世界中の多数の通常人によって支持される」ということだ。例示としては酷ではあるが、昨年のヨーロッパでのev騒動をみていると、特にそう思う。逆にいえば、プロパガンダのできない、したところで効果のない時代へ突入したとも言える。中国とか韓国、ロシア、北朝鮮、日本にいる散々美味しい思いをしたevenki族工作員など(朝日新聞・東京新聞等、nhk、旧悪夢党、日教組の教師達、地裁の裁判官などが好例)の「脅迫、ハッタリ、コケオドシ、ウソ、デタラメ、デッチアゲ」が通用しない時代に突入したといってもいい。科学性・合理性・知的正直が、もっとも価値のある—そういう世界へ突入している。随分前に、このブログで「深く生きたい」と書いた。今でも、その思いに変りはない。