しかるに、なぜ、日本の原発事故処理に日本製のロボットがでてこないのだろう。
不思議というか、奇妙に感じないか。
そこに、日本人の文系、理系という差が、いわば生き方・会社での処世術の差のような感じになっていないか…と感ずるのだがいかがだろうか。
以下、新聞から抜粋。
産業ロボットなどでは世界的なシェアと技術を誇る日本。
事故以来、日本のロボット研究者には 国内外から「日本のロボットをなぜ原発に使わないのか」との声が相次いでいる。
「日本は実績がないから、東電は外国製を使いたがる」。
東京工業大の広瀬茂男教授は嘆く。
欧米のロボットは戦場での経験があり、核戦争を前提にした試験も受けているとされる。
実は、日本でも原発用ロボットの開発を計画したことが2度あった。
1度目は1979年の米スリーマイル島原発事故を受けて83年に始まった。建前は「点検」用の極限作業ロボットプロジェクト。
90年まで約200億円かけたが、打ち切りに。
2度目は99年の茨城県のJCO事故の後。
今度は事故用で数十億円使ったが、「原子炉では事故は起きない」と1年で終わった。
「事故用ロボットを開発すると『原発事故が起きると思っている』と受け取られると考えたのでは」と広瀬教授は推測する。
▲補足、感想など
まるで、加藤清正と、石田三成の違いのような話だと思わないか。
16世紀末、豊臣秀吉は明国を攻めるために朝鮮を通り道としようと、朝鮮へ出兵した。
加藤清正は、秀吉子飼いの武将だし、武断派だから、命令されればどこどこまでもつっぱしる。
ところが、石田三成は、頭がいいし、この出兵じたいに消極的だから、盛んに裏工作をして、早めに切り上げたいと思っている。
そのあたりが、清正が三成を嫌い、後の関ヶ原の戦いで東西に別れ戦った理由へつながる。
同じようなことで、東電内部で技術系と事務系で別れて、お互いが対抗したのではあるまいか。
発電は、火力、水力、原子力と区分され、別々の技術だから、なかなか総合的に見られる人間は少なかろう。
特に原子力は他と性質をもっているから、より小人数であり、その技術者のプライドも高かったのだろう。
技術者であれば、当然、ロボットの必要性は理解できる。
ところが、事務系の人間からみると、ロボットを研究することは原発の危険性を自ら明らかにすることだ…と見える。(このあたり、どれだけ頭がいいか分かるなぁ。石田三成のように頭がグルグル回転するのだろうなぁ)
電力会社で、技術系が社長になった…という話はきかない。
だから、上で触れたように、技術者はロボットの必要性は理解しても、事務系の原発の安全を否定するつもりか…とかいう意見が勝ってしまうのだろう。
このあたり、理系・文系とか、技術者・事務系 というような区分が意味をもたないことが理解できる。
やはり、教養なのだぞ。
日本人の中で、教養というものをおろそかしたことに、東電のロボット技術を少しも進歩させない理由があるのだ。
もう一度、教養というものを見なおせ。