2018年9月30日日曜日

ゴロツキ・ヤクザの中国人には、挨拶の重要性が理解できない


核心ってなんだろう。
 日本社会は、知性主義というものでなりたっている。
 対して。
 中国社会は、前近代的なヤクザ・ゴロツキで構成された無頼社会だというあたりに、その根本原因があるのかな。

 ゴロツキばかりの無頼社会は、それでいいのだろう。
 ところが、近代国家というものは、知性主義というもので大体成り立っている。
 中国人の「前近代性・未開さ」というものを、表題の通り、「挨拶の意味・重要さ」が理解できない—という点で、理解できる気がする。
 まぁ、早い話、英国の産業革命に200年も遅れるような大ノロマ頭脳民族だから--と言えば、一番簡単だし、当たっているか。

 以下、中国の新聞から抜粋。

 「ただいま」という挨拶に対して、「お帰りなさい」と挨拶することは日本人にとってはごく当たり前のことで、違和感を覚える人はいないだろう。
 しかし、この習慣は中国にはなく、言葉の意味を中国語に訳すことは出来るが、家に帰って「ただいま」という中国人は多くはいない。
 それゆえ、中国人からするとこの習慣は不思議なものに感じられるようだ。
 中国メディアの今日頭条は19日、「日本人男性は帰宅すると大声で『ただいま』と言うのはなぜか」と疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、「日本の多くの伝統的な文化は中国から伝えられたものが多く、歴史を遡れば日本が中国を『師匠』と仰いでいた時代もあった」と主張した。
 そして日本に伝わった後、独自の変化を遂げ、日本の文化や習慣となって根付いていったゆえに、「中国人にとって日本の文化は非常に身近だが、逆にまったく知らないものもある」と指摘した。  例えば、「家庭に対する概念」を挙げ、古代中国では女性の地位は低く、主に家で家族の世話をし、男性が外で仕事をして家族を養っていたと主張。

 日本ではこうした家庭に対する伝統的な概念が保たれ、更に細かな文化や習慣が作り上げられていったと指摘し、今でも女性は結婚後に家事や育児を担っていると説明した。
 一方、中国では時代と共に家庭に対する概念は変化し、子供がいても共働きする夫婦が一般的で、子供の世話は祖父母が行う家庭が多い。
 続けて「ただいま」と言う習慣についても、中国人からすると「中国にも無いわけではないが、比較的個々の自由で、日本のように毎日必ず言わなければならないわけではなく、生活習慣に根付いたあいさつではない」と紹介。
 それゆえ、「日本人の男性が帰宅時に必ず大声でただいまと言うのは、奥さんに自分の帰宅を気づかれないことを恐れているのではないか」と独自の分析をした。

 記事の主張を見ると、「ただいま」と言うのは日本人の結婚した男性だけの習慣と理解しているようだが、それだけ日本人にとって当たり前の習慣が中国には存在しないことを示していると言えるだろう。
 「ただいま」という習慣のない中国人に対し、「おかえり」と言って貰える嬉しさを説明したとして、果たしてどれほど理解してもらえるだろうか。

補足、感想など

 日本人は、挨拶の大切さを十分に理解しているからだろうな。
 ただいま、おかえり、いただきます、ごちそうさまでした、しつれいします—という言葉は、仏教からとか様々な歴史があって、今の日本に定着したものだ。

 子供のしつけでも、上で紹介した挨拶の言葉をチキンといえるようにする—というのも、大事なことで、また、他者が家にきたときに、上のような挨拶の言葉を使っているのを聞くと、「あぁ、キチンとしつけのされた家庭なのだな」と安心する。
 挨拶は、人間関係を構築するための「使い勝手のいいツール」なのだ。

 そういえば、中国人の挨拶という文章があったな。それを紹介したい。

 --ここから--

2018/08/27()

 人と出会った時の挨拶の常套句は各国や地域によって大きく異なるものだ。
 中国メディアの快資訊は20日、「中国人がよく使う挨拶の言葉は、日本人にとって最も返答に困る言葉だった」と紹介する記事を掲載した。
 中国人が口癖のように使う挨拶のなかには「吃飯了没有」というものがある。
 直訳すれば「ご飯を食べましたか」という意味で、暗に「お腹は空いていないか」と尋ねるものだ。

 これは相手を気遣う意味を含み、日常的に使われる挨拶であり、日本人が挨拶の際にお辞儀をするように、中国人の間での習慣となっているものだ。
 この言葉は中国人にとっては挨拶の常套句なので、ご飯を食べたか食べてないかどちらを答えても問題はない。
 しかし、記事は「この挨拶に慣れていない日本人にとっては、最も返答に困る挨拶となっている」と指摘。

 さらに、ある日本人の経験に触れ、以前空港に迎えに来てくれた中国人からこの挨拶をされ、「食べていない」と答えたところ、空腹と思われ付近のホテルに連れて行かれ、ご飯をもてなされたという。
 状況からすると、この際は長旅を配慮し、「お腹が空いていないか」を尋ねられたようだが、日本人にとっては本当に食事を済ませたかを尋ねているのか、それとも挨拶の決まり文句なのかを見極めるのは難しい。
 それゆえ、ご飯を食べ終わった直後でも出会った友人に「お腹は空いていないか」と挨拶し合う中国人をみると、日本人は困惑してしまうようだと紹介した。

 確かに「ご飯を食べましたか」という挨拶は日本人にとっては返答に困るケースがあるだろう。
 だが、逆に日本にも中国人を戸惑わせる習慣はあるもので、互いに文化や習慣を理解して尊重することが大切と言えるだろう。

 --ここまで--

 要するに。
 食うということが、困難な時代が長く続いた—そういう中国社会であったということを上の「挨拶」なるものは意味しているのだ。
 まぁ、成り上がり者だということを意味していると言ってよかろう。

 日本の知性主義を基礎にした近代国家と、やっと食うに困らなくなった成り上がり国家の「差」といってもよかろう。

 冒頭の日本人の挨拶の意味が理解できないのは、中国人の前近代性を意味しているし、成り上がり者が、近代国家のふりをしようとしていると解釈してもそう間違いではあるまい。

 このあたりをスウェーデンのテレビが、中国人はどこでも排泄する—と取り上げ、中国人がなんたら文句を言っていた。
 そりゃ、人間誰でも排泄する。中国人は、場所もかまわず、排泄する。
 いわば、事実を、本当のことを言われただけだろう。

 --ここから--

2018/09/26()
 スウェーデン・テレビが先日放送した中国侮辱番組は大きな騒ぎを引き起こした。
 驚くことに、明らかな中国侮辱であるにもかかわらず、番組関係者は「中国人はユーモアが分からない」と発言。
 しかし、それ以上に私を驚がくさせたのは同胞を含む少なくない数の人が精神上、中国を侮辱する側の立場に立ったという点だ。
 まるで辱めの対象が中国人なら、人種差別は構成されないとでも言っているかのようだ。

 私の海外生活は20年余りに及ぶ。中国に関する討論会にもよく出席しており、私は西側の一部の人が持つ中国への根深い人種差別意識に身を切られるような痛みを感じている。
 「西側の主要先進国のメディアが長年にわたって中国に対するマイナスの報道を行ってきたことが多くの人に差別意識を持たせた」というのが、私の長年の観察から出た結論だ。
 表面上、こうした差別は政治的原因から生まれるものだ。
 「中国は民主ではないから、中国がすることは全て誤り」となる。しかし、これは実際のところ政治的な口実にすぎない。

 人種差別かどうかを検証するのは実は非常に簡単なことで、スウェーデン・テレビが他の人種に対して同じことができるかという点を見ればよい。
 恐らく、同テレビ局は同じやり方でユダヤ人を皮肉ったりできないだろう。もし、他の人種に対してできないことを中国人にしたのなら、それは人種差別だ。
 では、なぜテレビ局は他の人種にしないことを中国人に対して行ったのか―。
 私が思うに、中国人を笑い者にすることは一部の人の間で「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」と考えられている。第2に何の代価も生じない点がある。中国人はこれまで、笑い者にされても往々にして沈黙を保ってきた。

 今、われわれは人種差別というスウェーデン・テレビの違法行為を追跡するだけでなく、実際の行動で反撃に出なければならない。「われわれは一部のスウェーデン人のように人種差別を楽しんだりしない」と大きな声を上げよう。

 --ここまで--
 どこでも排泄する中国人が、一丁前のことを言って。
 人種差別でも、中国人を侮蔑しているのでもあるまい。
 単に、本当のことを言われただけだろう。

 上海のディズニーランドで、植え込みで子供にうんこをさせていた親に、ディスニーランドの係員が注意した。それに対して、その中国人の親がなんといったか。
 「お前はウンコをしないのか」と。

 これが中国人だ。
 挨拶の大切さも理解できない、場所も構わず、どこでもウンコする民族、それが中国人。