▲アメリカ映画の衰退を指摘する人が多くなった。
落合信彦さんという名前を久しぶりに聞いた。
彼は、アメリカ経済が最盛期の頃にアメリカへいって暮らした人だから、1960年代の映画も知っているし、今のなんというか「子どもっぽい」映画の内容もしっているということだろう。
ただ、落合さんと筆者ではその原因を指摘する内容が異なるようだ。
なぜなのだろう。
落合さんが長くアメリカに居すぎたということかもしれないな。
以下、記事から抜粋。
2月26日に、第84回アカデミー賞の授賞式がハリウッドのコダック・シアターで行なわれる。
だが、落合信彦氏は、最近のアカデミー賞やハリウッド映画について危惧を抱いているという。
以下は、落合氏の解説だ。
この原稿の締め切り時点では作品賞はモノクロのサイレント映画である『アーティスト(The Artist)』と、3D映画の『ヒューゴの不思議な発明(Hugo)』の一騎打ちとされているが、賞の行方は最後までわからない。
監督ではマーティン・スコセッシやスティーブン・スピルバーグ。
俳優ではジョージ・クルーニー、 ブラッド・ピット、ショーン・ペンなどのビッグネームが並び、華やかな祭典らしいメンバーとなっている。
だが、私は最近のアカデミー賞やハリウッド映画について、いささか懸念を持って見ている。
映画という文化そのものが衰退してしまうのではないかという危惧が、特に2000年代以降に強く感じられるようになった。
一言で言えば、「クリエイティヴィティの低下」である。
例えば2007年にアカデミー賞作品賞を受賞した 『ディパーテッド(The Departed)』が香港映画のリメイクであったことに象徴されるように、リメイク作品の数が急激に増えた。
オリジナルのスクリプト(脚本)を書ける人間が少なくなり、制作サイドが安易な作り方をしている証拠だと言える。
アカデミー賞では、審査員の質の低下も著しい。
賞に投票するアカデミー会員は、 監督、俳優ら約5700人のハリウッド関係者だが、少し前ならば選ばれるはずがなかった作品がオスカーを手にしている。
観る者の内側に深い問いを発する作品よりも、娯楽性だけの作品が好まれている。
審査員がマンガやアニメばかり見て育った世代になっている証左だろう。
CGや3Dなど、技術的な進歩は目覚ましいが、 作品の芸術性はかえって低下している。
最近で言えば2003年の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』の作品賞受賞で、 アカデミー賞の権威は地に落ちたと実感した。
2001年の『グラディエーター(Gladiator)』や1998年の『タイタニック(Titanic)』も同様だ。
チャイルディッシュな演出の退屈なストーリーだったと言うしかない。
『タイタニック』が公開された時、 イギリスでは“20世紀最悪の映画”と言う批評家もいたほどだ。
映画は時代を映す鏡だ。
名作映画の枯渇は、今、世界を覆っている閉塞感と無縁ではない。
▲補足、感想など
閉塞感と無縁ではない—か。
えっ、閉塞しているのか?
いや、まぁ、それはいいとして。
筆者は落合さんとは、多少見方が違う。
原因は、アメリカのハリウットというところが、アメリカの観客(もっとヨーロッパ諸国等の国民を含めて)をバカにしていることに原因があるのだろうと思う。
こんな難しい理屈は分かるまい、こんなことまで理解できまい---という製作者側の思い込みがあって、うすっぺらな粗筋となる。
粗筋がうすっぺらいから、バリエーションが限られて似通ったものになるし、二番煎じが多くなる。
その粗筋のうすっぺらさを、見た目の「華やかさ、派手さ」で誤魔化そうとする—その部分こそが、ハリウッドという映画会社群が陥った「落とし穴」なのだ。
もっと、粗筋を難しくせよ。
もっと、筋を複雑にせよ。
想定する観客の知的レベルをもっと高く設定せよ。
ハリウッドが生き残るとしたら、その方向しかあるまい。
筆者が先日みた「ハヤブサ」についての映画など、今の時点ではアメリカでヒットはしまい。
しかし、逆に言えば、観客側にある程度の科学知識・教養がなければ面白いと感じない映画—というものに移行していかなければ、活路はない。
日本映画は、その意味でハリウッドとは別に道を歩き始めたようだ。
それがガラパゴス化と言われようがなんといわれようが、その方向こそが映画の「王道」だと思える。