2015年9月11日金曜日

日本人は、捏造慰安婦達に対して、謝罪も賠償も絶対にしない。

慰安婦とは、戦時高給売春婦のことだ。
 昭和10年代であれば、それなりの職病婦人であった。

 日本・日本軍が、彼女達へ謝罪する理由などなにもない。
 また、同時に1945年までの日本と朝鮮半島との間でのあれこれ一切合切が、1965年の日韓基本条約で完全に解決済みだ。

 日本はいまさら、なにをする必要もない。
 謝罪? 賠償? なにそれ、美味しのか?

 以下、韓国の新聞から抜粋。

 「謝罪を受けなければいけない。それを聞いて私も死ぬことができる」。
 ベッドで横になっているおばあさんは、衰えていた。
 生存する慰安婦被害者のうち最高齢の金福得(キム・ボクドゥク)さん(97)は 健康が良くない。

 現在、慶尚南道の高齢者専門病院に入院。
 記者が話す言葉も補聴器を着用して何とか聞こえる。
 「日本の謝罪を受けなければ いけない」という言葉は話した。

 3人姉弟の金さんは、父の死後、12歳の時から家長の役割をした。
 慰安所に連れて行かれたのは22歳。
 日本人が「お金をもっと稼げる工場に 就職させる」と、その言葉を信じて故郷離れて釜山に行った。

 しかし工場の話は嘘だった。
 金さんは中国大連に連れて行かれ。そこで日本軍慰安婦「フミコ」と呼ばれた。

 死のうと思ったが、母のことを思うと死に切れなかった。
 3年間の歳月を送った後、フィリピンに連れて行かれた。
 このように慰安婦生活に耐えながら7年が過ぎた。

 1945年、解放がきた。金さんは苦労して統営に戻った。
 しかし金さんを待つ故郷の生活は過酷なものだった。母は亡くなっていた。

 金さんは故郷で妾として入った。夫はアルコール中毒者だった。
 金さんは夫の暴行に苦しみ、2回の流産を経験した。
 金さんは一代記で「苦痛であり死ぬほど大変だった」と振り返っている。

 数年後には戦争が始まった。金さんはパルチザンに食事の準備をし、避難しながら命をつないだ。

 金さんは決して隠れたり逃げたりはしなかった。
 94年に慰安婦被害者に登録した金さんはその後、「日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜デモ」に参加し、 日本の蛮行を知らせ始めた。
 国内外の行事に参加し、被害証言も何度かした。

 慰安婦問題を告発する活動だけでなく、他人を助けることにも熱情的だった。
 金さんは野菜を売って生涯貯めたお金と慰安婦被害者支援金を合わせて、地域の学生に奨学金2000万ウォン(約200万円)を寄付。
 2012年には慰安婦歴史館建設基金としてまた2000万ウォンを寄付した。

 金さんだが、今は体の状態が悪化し、身動きが自由でない。
 金さんの唯一の血縁だった弟は数年前に亡くなった。
 慰安婦被害者に登録した統営地域の他の女性もみんな故人となった。

 金さんは訪ねてくれば対話をするために「補聴器を付けてほしい」という。
 それでもコミュニケーションは容易でない。金さんにとって慰めとなるのは 枕もとの花だ。
 金さんは花が好きで自ら栽培し、病院に入院する時も花を持ってきたという。

 金さんの夢は、女性に生まれれば母親になり、家庭を設けることだ。
 ただ、その前に成し遂げるべき夢がある。
 日本政府の謝罪と慰安婦問題の完全な解決だ。
 金さんは「彼らが謝罪さえすれば私は安らかに目を閉じる」という言葉を繰り返している。



補足、感想など

 そもそも、日本政府と日本軍が上の文章の中で、どこで関係している。
 売春婦となって、女衒業者に中国やらフィリピンにつれて行かれたということだけではないか。

 慰安所の顧客の中で、日本軍兵士が多かったというのほ事実であろう。
 それは、需要と供給という関係にすぎない。

 それはオランダの飾り窓の女と同じではないか。
 飾り窓の女達が、元の顧客達に対して、謝罪を求めるなんて話を聞いたことがない。
 単なる仕事であり、売春 → 報酬の支払い で完全に完了しているではないか。

 どこで、日本及び日本軍が謝罪する必要があるのだ?

 ましてや、冒頭でふれた通り、日韓基本条約で完全に解決済みだ。

 大事なことを繰り返そう。
 捏造慰安婦は、日本人の名誉と尊厳に関わる問題だ。
 日本人は、謂れもない他者からの侮蔑に耐えることはできない。
 日本・日本人は、捏造慰安婦に対して謝罪も賠償も絶対にしない。

 また、2014年の日本における戦後レジームの完全崩壊をうけて。
 韓国は、日本から見捨てられ、縁切りされた国家なのだ。
 関わらない、助けない、教えない—どうでもいい国、それが韓国だ。