2015年9月13日日曜日

瀬島龍三 参謀の昭和史   保阪正康著 1991年 感想。

この本は、瀬島さんという先の大戦において、大本営の中で参謀をしていた人の伝記であり、また、保阪さんという人からの告発? の書でもある。
 筆者は、全部を読んでいない。
 終戦 →シベリア抑留 の部分を読んだだけだ。

 1991年という時点では、まだ、瀬島さんは存命だった。
 その存命だった瀬島さんに対して、先の大戦で、あの時のことを黙秘しているではないか、どうだったかしゃべるべき—というのが著者の保阪さんの言っていることだ。

 でも。
 筆者は思った。
 筆者ならしゃべらないな—と。
 そりゃ、同じ参謀で事細かくしゃべる人もいるだろう。
 でも、筆者は嫌だな。

 どこらに核心があるのかなぁ。
 それは、個人として—という立場がないからだ。
 恐らく、瀬島さんの場合、個人=参謀本部=大本営 というものだったのだ。

 なにかしゃべれば、それは個人の意見ではなくて、参謀本部として、大本営として—となる。
 だから、しゃべれない。

 そして、そういう立場をこしらえたのが瀬島さんのもつ頭脳の明晰さだろう。
 つまり、日本軍という組織は、いや、日本という組織は、戦闘が起こる場合、自国の運命を、少数の天才の頭脳に委ねてしまう—という歴史があるのだ。

 戦国時代であれば、竹中半兵衛、黒田官兵衛など、明治の日露戦争では秋山真之 という「天才達」に国の命運を委ねたのだ。
 その意味で、瀬島さんという人は、昭和の秋山真之—だと解してもそう間違いではあるまい。

 ところが、第一次世界大戦の頃から、戦争の形が変化したのだ。
 戦闘の規模だとか、場所の広範さ、武器の進歩の早さなどがどんどん変化していったのだ。

 日本軍は、第二次大戦においても、第一次大戦での「戦争の変化」というものに目を背け・無視して、日露戦争のシステムである「少数の天才達」に、国家の命運を委ねるという「システム」を採用した。

 ここにこそ、著者である保阪さんが、瀬島さんに向かって「個人としてどう対応したのだ?」という問いに対して、瀬島さんがしゃべれない—理由があるのではあるまいか。

 上でふれた。
 瀬島さんという人は、1940年代初め、日本国からその命運を託された「昭和の秋山真之達」なのだ。
 最終的に日本という国を勝利に導いていけばいい、そのためにはなんでも可—という存在であったのだろう。
 保阪さんが盛んに攻撃している「ナントカという情報を握りつぶした」というようなことも含めて、「可」である存在だったのだ。

 話は逸れる。
 筆者は、山歩きが趣味だ。
 山の中を歩いていると、暗い杉木立の中を歩くことがある。

 この昭和20年代~昭和30年代に植林され、以後人件費の高騰、外国からの木材価格の方が安いという状況の中で、手入れを放置された杉林だ。
 惨めな敗戦直後だ。
 50年もすれば、すぐお金に替る—という甘い見通しにたって、密植されたが、間伐する時点でもう人件費が高騰し、間伐もされないまま、日光の差し込まない暗い林が出来上がって、にっちもさっちも行かない状況なのだ。

 これなど、昭和20年~30年代に杉の植林を勧めた林業専門家の責任なのか?
 こんな風に植林すれば、大量の杉の木材が手に入りますよ—とか言った、なんとかさんの責任なのか。

 瀬島さんという戦時中、大本営の中で参謀をしていた人へ「アレコレ」言うのは、上記の「暗い杉木立」のことを言っているような気がする。

 瀬島さんという人は、1940年代において日本軍が長い養成期間をもって育て、選抜した少数の天才達の一人であり、昭和の秋山真之達なのだ。
 日本・日本軍は、国家の命運を、日露戦争で秋山真之に委ねたように、瀬島さん達に大きな権限を与えると同時に委ねたということなのだ。

 もし、敗戦へと向かう過程で責任を問われるとしたら、こういう「少数の天才達に命運を委ねる」という日本軍の・日本のシステムにあるのであろう。

 第一次世界大戦という「戦争という概念を変革するほとの事件」を、経験しながらも、いざ、第二次大戦においては、旧態依然たる「日露戦争」当時の「少数の天才達に国家の命運を委ねる」という「システム」を採用した、日本軍・日本というものが「責任」を問われるべきであろう。

 だから。
 瀬島さんは答えなかったのだ。
 筆者でも恐らく、瀬島さんと同じ立場なら、答えはしない。