▲どこに核心があるのだろうか。
日本の映画界にとって、歴史上の人物とか事件って、「著作権フリー」のどう扱っても文句のでない「都合のいいフリー素材」ということだ。
赤穂浪士というものを悲劇にも喜劇にも、どうにでも扱える。
お金の面から、この赤穂浪士という素材を扱ったという意味で、「新味」を出したということだろう。
その「視点の新しさ」ということで、面白く見れた。
映画館にいって、ハリウッドの映画の「ネタ切れ状態」をみるのは寂しい。
アメリカの独立が1776年、独立して250年も経過していないということか。
日本のおおよそ1500年とは比較にもならないのだな。
上でもふれた。
日本のこの1500年にも及ぶ歴史があって、その歴史上の人物は、近代を除いて著作権フリーの「どうあつかってもいい、実に都合のいい素材」だということだ。
だから。
こんな喜劇とも、金銭にからめたシビアな世界を扱うこともできる。
ハリウッドの二番煎じ、三番煎じの「ネタの乏しさ」に比して、楽なものだ。
映画で扱えなければ、アニメにして、扱えるネタを増やすこともできる。
「ネタの豊富さ」では、日本は世界のどこにも負けない。
それが、今、改めてアメリカ・ハリウッドに比して、日本の映画界を盛り上げているのではあるまいか。