2024年6月18日火曜日

元寇後に中国人が書いた日本人の評価

 

【戦闘民族】元寇後に中国人が書いた日本への評価 24/06/12()

「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって刹される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」

<以下、日本人からの反応>

2: 完全に倭人=蛮族やんけ

5: >>2元寇以前は白村江の戦いのイメージでずっと日本人のこと舐めてたらしいからいきなり鎌倉野蛮人に出くわしてビビったらしい

3: 狠はむごい、残忍であるなどの意味がある中国語らしい

4: じゃあ戦闘民族じゃん

14: >>4戦闘民族やでスパルタ、モンゴルと並ぶ

6: 九州はそうだろうさ鎌倉幕府も、功があった九州の武将を十分に報いておけば良かったのに

13: >>6与える土地がなくなってもうてたんや

7: なお、日本は元寇で疲弊した元に何度も海賊行為を働いた模様

8:こんぐらい元気じゃないと世界では通用しないんやろう

9: もう優秀な戦士というより野蛮人やん

11: 兵士に関しては大袈裟に書かないと母国で面目立たないのもあるけど女を犯すなはようわからんな

12: 大和民族のことなんやと思っとるねん

15: 武装した野蛮人が強いのは中東やアフリカで分かる

16: 牛の死体投げ込んだらクソつけた矢射ったりが恐ろし過ぎる

17: 島津はもう存在した事実

19: マッドマックスの暴走族みたいな感じか

20: 割とヒャッハーしてたんかな

23: その数百年前さえ、貴族は殴り合いをし盗賊はそのへんの村を襲って我が世の春やったりとヤバいし数百年後も足軽が強奪かますのが中世

25: あのあたりの時代は修羅の国そのものの時代やったからなぁ

26: 鎌倉はまだ武士同士の争いやろ足軽とか悪党とか出てくる方がヤバいと思う

28: >>26昔の悪党は意味が違うらしいな足軽は上が給料やらんから強奪で稼ぐ事が普通もののけ姫のあのシーンがそれやし

30:あの時代の弓でフライパン貫通させてる動画見た

48:植民地軍を自然現象でギリギリ退けた歴史をドヤ顔するって恥ずかしくないか?自刹攻撃を"神風"とか言い出すのマジでアタオカだろ

50: >>48きっと勝ち負けの問題やろなあ

53:元寇の話は味方ながら怖いよ

1. 今の日本人だって独身世帯から子育て支援と称した増税されたり円安で物価高で苦しんでいても生活防衛のためにと戦ってるんだから元寇のころと比較しても皆もやはり大したもんだよ

46. >>1忍耐強いんだろうね蛮族呼ばわりされるのは心外だよ志賀島に逃げ込んだ元軍を殲滅したあとちゃんと追悼碑を建てて弔ってる大陸や半島の歴史には無いことだよ彼らはタヒ体を毀損するからね金玉均とか調べると反吐が出るよ。

70. >>64有力野党が自民党にすら劣るゴミだから無理だなぁ。

149. >>1その割に他力本願じゃん、我慢してるだけだしおかしいことはおかしいって言える強さを持てよ。

2. >倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。なお島はブサイク過ぎてほとんど相手にされなかった模様。

3. 国の存亡をかけた戦いなんだし、鎌倉時代だしってところかとたまたま門の前を通りかかった人を射コロして自慢する程度にはぶっ飛んでいたわけでその集大成が戦国時代なんだから察して頂戴というところかと

84. >>3武士の時代=やくざの時代だし。国(朝廷)が統治できなくなって乱れた世を、自警団からはじまったやくざたちが治めてた。

180. >>3鎌倉武士は…残ってる歴史的資料を読んでも憚りながら蛮族なんだ。控え目に言っても完全武装した野盗。

4. 中世日本の心意気・気概・気迫は古代から培われたモノ。

5. 頭がおかしいのがまともな時代やしな。なんとか押さえつけようとしたのが鎌倉幕府や。

30. >>5あたまおかしい蛮族たる鎌倉武士に押さえつけなんか出来るはずもない。御恩と奉公って精神面で動機付けて集団行動を誘導したのがせいぜい。問題は防衛戦では御恩の源泉たる所領地が増えないので与えられないこと。

71. >>30実際は元寇対応で幕府に従わなきゃ罰を与えるぞとやって、武士を無理矢理まとめて中央集権を確立した。何がご恩と奉公で誘導しただよ。

83. >>71承久の乱での北条政子の演説を知らないのか?頼朝公のご恩は山よりも高い

89. >>30室町期まで農民も頭おかしいんだよなぁ。与える土地はこの後非主流派粛清しまくって十分確保した。ただ御家人じゃない在地武士も元寇で動員しちゃったせいで旧来からの御家人VS元寇で御家人に組み込まれた武士の利権争いを幕府が調停できなくなって崩壊した。

107. >>89日本の農民って裕福なせいで結構扱いづらい。戦国で国力増強のために大切にされたり、江戸時代はぞんざいに扱って一揆になると江戸幕府に取りつぶされるから、藩に強く出られる立場なせいで従順になってるだけだし。

124. >>107裕福と言うより1つの村が1つのヤクザの一家や暴走族構成してた。村の面子のために他の町や村と戦争できちゃう。

128. >>124それが出来る以上『裕福』かと武装するにも金が要るので。

173. >>128農民なら鎌や鍬を持ってて当たり前だし、それで戦えるのでは?

175. >>173いや近畿以西のちょっとした豪農なら刀槍や銃を名主の床下等に隠し持つのは割と普通。特に水争いの歴史があったりするとほぼ確実。身内みんなが武装できるよう数もそれなりに充実してたりする。屋敷処分する時には今でも古い武器弾薬が出てきてしばしば新聞ネタになってる。

6. 攻め込んどいて防衛されたら「蛮族〜!」とか何やねん。じゃあ攻め込むな。

39. >>6中共の戦中戦記ものと同じで、『超未来的な手法や日本兵の超人的な能力に苦しめられた』という設定になっていますが、元寇当時の元の指揮官達の立場も同じで、わざわざ侵略する為に大軍を送り込んだのに大敗敗北を二度もした訳で、その理由付けとして『和人とは、男女共に超人的能力を有した蛮族だったから』という事にしただけですよ。日本の歴史教育的には、以前までは、神風論が主流となっていましたが、今現在では、九州の鎌倉武士団が必死に様々な戦術を繰り出しながら戦闘を行って撃退したという事になって来てます。

92. >>39今は、神風云々は政治的な都合で神社や寺に配慮(利用)しただけってのが定説です。

120. >>92神風のおかげだから武士への土地の分配無しって苦しい言い訳に使われたですね。最初は季節外れの嵐にせよ2回目はある程度経験則から狙って台風ぶつけたとも考えられていて、戦略的に狙った通りの戦果を挙げたので、自力の軍事力あればこその結果だと思います。ただたまに神風の否定を台風すら無かったと解釈して言い出す人もいる。

136. >>120一応武士に分配はされたし、当時だと祈祷はどの国でも報償の対象なのでそこは問題ありません。不満が出たのは元寇の対応のために戦果確認の為のルールを無用にしたので、功績の判定が難しかったからじゃないかと。

9. ちなみに「日本に攻め込みましょうよ」とか言い出したの朝鮮の王なんやってな。

53. >>9刀伊の外寇とか元寇、応永の外寇とか竹島とかここ千年くらいほぼ半島側から列島への侵略で唯一の例外が征明嚮導だったりする。これも「通り道だから邪魔すんな」なので列島側から半島への単なる侵略とは言い難い。でもあいつら、史実を改変してなぜか被害者と主張してるんだよな。

100. >>53 基本的に白村江で敗れて半島を失陥して以降、日本はずっと防衛側よね。

154. >>9フビライの娘婿の高麗王子やな。

12. 鎌倉~室町末期の本を色々と読んでるんだけど、戦闘民族が誇張でも何でもないくらい頭おかしいな。農民も僧侶もネジが飛んでる。こいつらをとにもかくにも押さえつける体制作った徳川さんガチですごい。

19. >>12もういい加減に戦の世にも飽いたから半分は自発的に協力したって側面もあるでよ。

63. >>19それでも大阪や下手すりゃ島原も対応誤ったら乱世に逆戻りする危険性はあったぞ。飽きた世代が去って、武勇伝を聴いて育った世代の牢人が乱世再びと望んでる節はあった。最終的に由比正雪の騒動あたりでほぼ完全に消えたが逆に言えばそこまで禍根は残っていた。

93. >>12徳川もそうだけどかなり秀吉も頑張ってる刀狩が象徴的に言われるけど、それ以上に、 武士と農民の身分差をはっきりさせて武士から農民への蛮行に対してある程度武士へ処罰できる 支配体制築けたのは秀吉の功績。

130. >>12でもさ今になって狂った野蛮人という話になる。この歴史修正はなんなのか。これまで教えてきてた歴史学者は中国の歴史書に当たってこなかったって話なのか。

140. >>130当たれる史料数がネット以前と以降では文字通り桁が違うから仕方ない点もある以前だと一人が解読中の史料には他の学者はアクセス全くできなかったんだし。

172. >>140最近は素人でもわかりやすく解説してくれる本も多いよね。

169. >>130歴史修正じゃなくて元々そういう書籍・史料はあったけど俺らが読んでなかっただけだよ。自分らの見識が広がったんだと思おう。あとやーやーわれこそはー!は歴史漫画とか親が見てた時代劇の影響が何となく残ってるだけで、学校で教わったわけじゃないと思う。学校ではもっと淡々と事実を教える感じだったし。

13. 元軍は捉えた住民の掌に穴を開けて数珠つなぎで連行したり、どっちが野蛮なんや、あんな残虐な連中をよく退けてくれたよ。

91. >>13どう見ても日本人側が戦略知略に長けてて目的遂行意識が高く強かっただけの話で、野蛮なことや気性が荒いことなんか何もやってないよな。

127. >>91結構抜け駆け等多かったので気性が荒いのは事実かとただ同時に教養があって柔軟なのも確かなので実際の所、頭が固く柔軟に指揮できない元を、臨機応変に動いた武士が勝利したのが元寇なので。

14. 勝手にちょっかい出してきた挙句、野蛮だとかむごいとか。

181. >>14どの口が言うんだ。って感じやがそんだけわーくにの御先祖様の蛮族感が極まってたんやろなぁ。首狩族の国家やぞ。

15. こう言う評価が抑止力(の一種) まあ、なぜ負けたと言われたら、他に答え様が無いのも確かですけど。

16. 捕えられた対馬の住民とかは船首に括り付けて九州に進軍して来る蛮族に対して降伏するとかありえんだろー。捕らえられて敵の肉盾にされるなら討ち死を選べって覚悟になるんじゃね?

17. 鎌倉武士は蛮族中の蛮族。常在戦場がモットーで家の前につねに生首ならべてるし、女みればレ〇プするし、強弓での鍛錬しすぎて指の形が変わるぐらいだしな。

35. >>17源頼朝が他人の物は盗むなって御触れ出したんだっけ?それぐらいに無秩序、古代ローマ軍みたいなもんだったらしいよな。

51. >>35うむ。通りかかった通行人に修行だといって弓矢で射貫いてたらしいからなー。残虐さでいえば元寇のほうが圧倒してるが、蛮族みでは鎌倉武士のほうが上やろな。

20. 鎌倉幕府崩壊の原因の説に元寇で一致団結したせいで、国内で討伐する敵対勢力が居なくなってご恩と奉公の制度が崩壊したってのがあるくらいだからな。常に戦争をしてなきゃ維持できなかったから平和になったせいで崩壊したという皮肉。

43. >>20悪口になった田分け(戯け)をしないと兄弟で殺し合うのが武家だからな。戦争し侵略しないと一家の安寧が得られない。分ける土地が無ければ、やむなく長子以外は寺に入れるから僧も武闘化する。

21. いきなり攻め込んできて民間人大虐〇しといてなぁ。よう言うわ。

23. 先鋒を半島民なんかにまかせるから。

40. >>23どうせ敵が来ると逃げ出しているのだろうな朝鮮戦争のように。

67. >>40大丈夫、元も逃げ出す朝鮮や漢人の扱いに慣れてるから、同等以上の兵で監視してる。だから前も後ろも敵だから逃げ場がないんよ。

24. そもそも、わが国に空白の時代においては宋書倭国伝に記されている倭の五王は中国の南北朝時代の宋の歴史書である。そしてその時代で登場する倭国の五人の王を指します。しかし、宋が山東半島を北魏に奪われた事で、倭国は朝貢を取りやめたとする説があります。469年に南宋は北魏に山東半島を奪われてしまったと言われている。その後、倭の五王の中で雄略天皇を倭王武だと考える人は極めて多いとされる。

86. >>24南宋は日本から大量に硫黄仕入れて何とか乱世生き延びてたやろ。恩着せがましく朝貢朝貢言うが助けてたのはどっちや。

94. >>86南朝の宋と、南宋は別モノや。

26. 蝦夷に居座ったモンゴルが戦奴として連れてきた中央アジア奴隷族も神風扱いで撫斬りしとけばよかったんだよ。

28. まあ当時の世界の戦士階級としては標準よりやや抜けた程度これ書いたの元南宋人だから。

29. >>植民地軍を自然現象でギリギリ退けた歴史をドヤ顔するって恥ずかしくないか?学校の日本史だけの知識だとこうなる、実際、この時代の武士はバーサーカーそのもの、当時の記録には武士は庭に生首を絶やすことがないようにとか書かれている、武士道なんて徳川の太平の世ができてから確立された事でこの時代は敵の兵士の死体を利用したり、馬の死骸を船に投げ入れて病気を誘発させたり、夜襲掛けたりとやりたい放題だった、神風は結果論に過ぎず、そんなのがなくても元のやつらは逃げていたのが事実。

32. 倭人女に接触する機会があったのか。そんな間もなく敗走したのかと思ってた。

60. >>32特に最初の元寇では橋頭堡っぽいのを作られては破壊撃退してたから少しはね。

74. >>32対馬とかならまあ、すぐに渡海で逆侵攻しかけた武士に奪還されてるけど。何気に渡海侵攻自体は昔から得意なんだよな、日本。

97. >>74その割に海戦はクソ弱い。日清戦争以降しかまともに勝ってない。

164. >>97そもそも日本が外征すること自体少なかった上、数少ない外征の日明戦争は終戦まで海路維持に成功してるが?何を以てクソ弱いと評してるんだ?日明戦争とかは明側は勝てないからと正面切っての戦闘はしてないし。

80. >>32元寇時にですか?女は犯され殺され、或いは生きたまま腹裂かれ胎児まで殺してる。男も虐殺。(確か人肉を非常食にしてたと聞いたことあるような?)この惨たらしい惨状が起きて日蓮が涙してる。当然、鎌倉武士は激怒して最終的に敵を残らず駆逐してる。

96. >>80あ、それ宗教書で書かれた時代違うし、神仏が助けてくれたからって言う布教のための宗教書が元ネタだから、事実かは疑問符でてる。

166. >>32犯すべからず、は当時の中国語では犯してはならない、ではなく、犯すことはできない、だと聞いたことがある。

33. アイヌとかいう元襲来以前の考古学的資料が存在しないモンゴル被支配族。

62. >>33あれは蝦夷の残党とオホーツク民の混血。鎌倉時代、元寇の少し前から獣皮カヌーで各地にやってきて定住したり追い払われたりの記録が出てくる。被支配族というより故郷から追い払われてきたんよ。文化的、言語的には縄文系の蝦夷よりオホーツク民が主らしい。

102. >>62寒冷化の時期には民族は故郷捨てて南下するからな。

198. >>33北海道のアイヌは樺太に攻め入り、さらには樺太の先端から大陸側の連中とも戦闘を繰り返していた戦闘民族だぞ。

34.ゴーストオブツシマで知ってた。

38. 鎌倉武士のバーサーカーっぷりと、弓の破壊力はもはや定番だな。あと、モンゴル軍はもう少し良い船を作れ。肉眼で見える所だからって手を抜いちゃいかん。

68. >>38元は騎馬民族で造船技術なんか無い。倭への侵略言い出しっぺの高麗の王子が責任取らされて、金だけ出してもらって造船することになったのであれ100%高麗製。当時から手抜きだった事実が沈船調査で判明してるあたり半島製だとよくわかるだろ。なおこの時の無茶な皆伐で見渡す限りの禿山が作られ、20世紀に日本が植林始めるまで600年くらい禿山のままだったというね。

81. >>68一応高麗は性能良かったし、沈没船調査でそれは判明してる、そもそも性能良くても沈没するのが日本の沿岸だしそれに半島内での渡海侵攻を経験してるから日本ほどでないにしても元もそれなりに能力はある。単純に元軍が日本と比べると弱かっただけの話。元軍自体、元から漢人を正面に並べて消耗戦をしつつ、温存した主力で撃破する軍なんで、上陸に手間取って温存する主力と消耗用の軍が同じ所に居たらどうなるかは自明。

183. >>81平底船が性能良い?

193. >>183内陸の河川や水路に限れば使い勝手はいい。外洋航行に使うのはどうかと思うけど、それは運用の問題で船がクソってわけじゃない。

182. >>68第一次の元寇は高麗の「平底船」で、騎馬を乗せてきた。船酔いでフラフラになった。当然、上陸戦には騎馬は役に立たない。第二次には南宋のキールありできたけど、今度は最初から警戒していたが上陸戦は無理。もひとつ言うと、日本は長弓を使い、元軍の短弓よりも防御戦には秀でていた。ま、高麗軍と和軍を同じと見た元の見込み違いが最大だろうがな。

199. >>182そりゃ、元からすれば見た事も興味もなかった日本の事なんか知らんがな状態だろう。元々、大陸民は地続き以外の海の向こうに興味がない民族だし。

184. >>68山が禿げたせいで、後の李氏朝鮮では製鉄できなくて輸入品に頼る石器時代に近い状態になったってのがね…

41. 戦争は戦国時代から毎日もようにあって鍛えられたが、台風や地震の襲来が団結力、思いやりを育てたと思う。タダの蛮族ではなかった。

44. サイヤ人みたいなもんだ。

48. 生まれ変わりを信じてないと出来ないよな。

66. >>48単に荒くれ者だったのでは。鎌倉武者の野蛮だった訳だし時代は違うが、炭鉱夫がケンカでダイナマイト投げ合った話があるみたいにそういうレベルの命の価値観だったのかもしれない。

85. >>48ぶっちゃけ、武士自体は家名残すための消耗品なんで敵味方に息子をそれぞれ派遣して殺し合わせて生存計るとかやるのでそもそも現代価値観で計るのは無理。

49. 日本人って素直で律儀だから、これと決めた場合の振れ幅が広いだけ元々武士が生まれた理由として、国軍の廃止という超平和志向政策をやってしまったからだし。

186. >>49平和というより巨大化した軍と警察を維持できなくなった破産かな……古代の中央集権国家が全て通った道ではあるが。

56. そら侵略されたら必死になるやろ。

58.今は元寇とは鎌倉武士が元の軍勢に圧勝して元軍が逃げ帰ろうとしたところに台風が来たって研究結果が出てたと思うが。

77. >>58ゆとりあたりまでは神風で習う。

61. 昔学校では、モンゴル軍が台風で自滅したから日本は助かったみたいに習ったけど、実際には鎌倉武士がかなり奮闘してモンゴル軍に上陸して橋頭堡を与えなかったから、結果台風の直撃で元軍が全滅したのが真相だったみたいだな。

170. >>61それどころか襲来後、鎌倉幕府内では何度か報復の高麗遠征計画まで持ち上がった。襲来時に手も足も出なかった相手にそんな発想はわかない。戦いではかなり手ごたえがあったのだろうと考えるのが普通。結局、諸般の事情で意見がまとまらず廃案となったようだが。

174. >>170で、公式の報復軍が出なかったので元寇から50年後以降に私的報復部隊が出て倭寇と呼ばれたんよ(前期倭寇)明から「もう元じゃない」抗議が出て足利幕府が禁止令出したこともあって元寇から100年で一応前期倭寇の報復は終了した。で、その後は中国人が長江河口の島を本拠地に後期倭寇(偽倭)を出して倭人を自称して沿岸を荒らし回る事になる。

139. >>65解読はその道の人がやってるから、わいらは気にしないでええんやで。日本の古文書だって知識ないと読めんもん。

75. そもそも、人間だれしも、過去に自分自身のあたまの中から取り出したそのグラマー形式を現在において見返しても一見なにをコキむしたのかは容易にわからない・・・よね?しかし、当時の背景や情景を思いめぐらしながらその文字を追っていくと、意外とパターン化されてること目が慣れれば容易に識別できる。そこに生成AI

76. 引用元示しながら一連の流れまとめたら楽しそうやな。

88. そんなん腐る程いるだろ。興味無くネット漁るより仕事して呑んで遊んでと楽しく日常過ごしてるのが、一般的なんだから。

111. 幸いだったのは確かだし。時の運てのもあるし。運も実力と考える向きもあるし。逆に言うと元はアンラッキーで時の運がなくて、実力も発揮できなかった。まあ大陸の戦場と比べて地形が違いすぎるし、情報も古かったみたいだから、現場の人間は都でふんぞり帰ってるバカどもに血管ブチ切れそうな思いだったろうね。

123. >>111時の運というか、日本からしたらある程度敵を船に縛り付けときゃ海が荒れる季節に全滅する、って言う至極真っ当な戦術でしかない。戦前戦中戦後に渡って民間の貿易船で元との交易を続けて情報収集を怠らなかった日本と、間者とバレて監禁される使者しか使わなかった元の差が明白になっただけかと元は陸路の貿易による情報収集と懐柔は得意だけど海路は全く駄目だったな。

131. >>123元だってわかってるから、文永の役は冬の荒海の前にと10月に来たんだし、弘安の役は5月上旬に侵攻してきた。7月の大風までに本格上陸されてたら侵略されてたかもな。

137. >>123船団組んで行かざるを得ない国相手に、上陸予定ポイントの気候や気象の情報が得られる前に出かけて行くとかアホの極みでしょ。普通なら無いと思うんだが。やっぱ運が良かった。

141. >>137日本側の対策がしっかりしすぎてアホの極みをやるか、もしくは諦めるかの二択しか与えなかった事が大きいので、運では無く必然。

147. >>141弘安の役なんか4.4万隻もの大軍揃えて来た訳で攻めあぐねたから帰るとは言い出せなかったんだろうな。冬の荒海が収まって台風までゆとりのある5月頭に侵攻かけて来たんだし、7月に入ったけどまだ行けるはず、と粘った結果がアホの極み。なお義父のフビライは娘婿のため第三次侵攻も計画してたけど婿の高麗王子は(造船用の)材木不足で無理と泣き言言ってた模様。

153. >>147まあ、一回目でも高麗レベルなら確実に制圧できる兵力ではあった。完全に日本の国力見誤って、情報を間違えたから戦略時点で間違えてた。まあ、こういう情報を相手に取らせないようにするのも外交なんで日本の戦略勝ち。

161. 現代の見解:神風は無い、元寇の内訳は高麗軍と江南軍、てつはうは鉄砲の意味だが焙烙玉、フビライは死ぬまで日本攻略を計画してた、その都度内戦反乱が勃発し、衰退する。

168. 幕府、朝廷から相当量の直轄地貰ってますが……?

105. いろんな個体がいるから社会は形成される。わいもわいの先祖が勇猛果敢だったとは思えんけど、時代によってはそうでないと生きられなかったんだろうし、何にしても私とあなたの遺伝子はここまで繋がったラッキーさん。

117. 自分には全く関係ないけど、昔には勇猛な人も居たってことでいいんじゃなかろうか。

178. 百姓も福祉なんて無いから没落すれば子孫も作れない時代。親が殺されても子が強かに生き抜くことで子孫を残すわけで弱者の子孫なんているのかねぇ。

192. >>178漁師のやばさが有名だけど、地元でも農家は昭和初期まで水争いで普通にコロシアイしてたそうな。昔は凄いやばかったとか。

99.>元寇以前は白村江の戦いのイメージでずっと日本人のこと舐めてたらしいから。600年前の情報をもって他国へ攻め入ろうなんて怠惰にも程がある。大都の連中は何をしていたんだろ。

116. >>99日本に使者を派遣して情報収集はしてたが日本側は監禁してたし、元寇一回目以降は切り捨てた。一方、日本は平然と元や宋と貿易船で交易してたので、宋の亡命者含めて情報筒抜けだった。

132. >>116使者って。大上段からパイスー送るとかアホじゃなかろうか。普通市井にコソッと放つんじゃ無いんか。それだけ舐められてたって事だろう。

142. >>132日本と違って元は日本に貿易船を派遣してなかったから日本沿岸に日本以外の船が現れたら即効バレるからコソッとがそもそも出来ない。海上貿易国家と陸上貿易国家の違いかと。

101. >兵士に関しては大袈裟に書かないと母国で面目立たないのもあるけど女を犯すなはようわからんな。倭人に負けたってだけでも恥だったろうに、倭人の女に返り討ちに合いましたなんてもっと不名誉だろ。兵隊引き連れてった上が恥かく。

150. >>101倭人の女襲って返り討ちされた兵が多かったんだろう。侵略と略奪は大陸の常識だったから同じだろうとやらかして返り討ちされてしまった兵が通達出さなきゃいけないほど多かった。

194. >>150というか、対馬の留守居の老人と女子供だけで700名しかいないのに17000で攻めた国があって3000人もコロサレテル。

103. 家族の拠り所となる家土地を守るために一所懸命という言葉ができたのが鎌倉時代だった。そこから派生した武士の生き方が司馬遼太郎の言う名こそ惜しけれという精神性だった。それが先の大戦での太平洋戦線での米軍の苦戦で、日本人の命知らずの一所懸命さが続いていて、原爆使用の理由にされた。卑怯さをアメリカンドリームとノタマウ米国人には理解できない生き方だ。

104. 白村江も待ち構える数倍の敵軍に「俺らが進めば逃げるだろ」って謎の強気で攻めかかるという相当おかしなことやったらしいからな。防御側が有利だから攻撃側は3倍以上の数を揃えて攻めるのが世界の軍事常識っぽいのだが。

112. >>104半島ネタだと馬持ち帰って諏訪で量産されるまで、高句麗騎兵に対して歩兵で突撃かます、倭国軍も頭おかしい。

118. >>112そもそも、あの時代で元軍並の渡海能力持ってるのがおかしいけどな。それでも数が足りなかったんだからどうしようもない。

133. >>118槍や矛ではなく剣歩兵で突撃だな。日本と朝鮮半島は季節で一方通行になることを除けば比較的渡海はしやすい。

195. >>133?日本海が?

197. >>195あの時代は都合のいい風が吹くまで半年待つとかしてたで。

200. >>197割と日本は古代から渡海能力高いからな。実際日本の貿易船は頻繁に元に寄港してたから、幕府がコスト度外視したらその全部が侵攻部隊になり得て元の沿岸部全域が防衛線になってた。だから、クビライが文永で失敗して状況のヤバさに焦った可能性はある。

110. そりゃ、昔は女の子も武術の心得あるのが当たり前だったからな。夫が遠征中に奇襲されたら妻が籠城する。筋力差有るから薙刀が好まれた。

114. 戦後日本は狼の牙を完全に折られてしまったな。今戦争になってもこんな獣のように戦える魂を持った人間がどれだけいるよ。

187. >>114お前は、自衛官を実際に見る、つーか手を取ってもらったことがないだろう。俺は遊んでもらったが、おっそろしいぞ。そして、日本人は鯉口を着るまでニコニコしているってことを教えといてやるよ。

122. 神風がーっていう人おるけど、そもそも上陸出来なかったからそうなったわけで。

129. >>122事前調査って大事よな。

189. >>122「次は俺が行く」「その次は俺」って感じで延々と夜襲が一晩中続くから寝れないのよ。それと、馬の問題で日本は今は干拓と護岸工事やってるけど、昔は湿地帯で日本産の馬みたいに動けない。後、京都でシタイが疫病産むの知ってるから、バンバンシタイを船に投げ込むしな。

134. だけど、勝利の真相は武士の奮闘なのにどうしてそういう話が広まってないんだろう?他国なら嘘でも英雄豪傑の活躍の話にするだろうに、日本人ってこんなことまで謙虚で真面目なのかな。

160.>>134それ認めたら戦功に見合う恩賞与える必要がある。なので幕府は武士活躍の貢献度を低く抑えるため勝利の主因は神風ということにして恩賞を減らしたんよ。

165. >>134明治辺りの国家神道の為のプロパガンダが広まったせいで、それまで広まってた史実が変質した。戦後もまだ大日本帝国に染まってる左派の方々が固執してるだけで、ネットの発達で正常化中。

144.蛮族のように書かれているけど、真に受けるなや。敗戦の言い訳をしているだけやで。

155. >>144当時としては自国以外=蛮族なので忘れがちだが、日本も元を蛮族扱いしている。

162.大丈夫、それから数百年後の江戸時代に入っても「おい、床下に人がいるから斬ろうぜ」と気軽に声かけする程度には蛮族だったと水戸光圀が記録してる。光圀公の晩年にはそういう話が無かったあたりたぶん生類憐みの令あたりが境界。それまではずっと蛮族。

171. >>162光圀自身が同時代の中でも蛮族・・・まぁ兄貴が死んでからはまともにはなったが。

190. >>171辻斬りが趣味だから。晩年も問題があった小姓を自らコロシテル。

156. 元寇って寄せ集めの腐った集団だったんじゃない?余裕ぶっこいて侵略しに行ったら返り討ちに遭いました。生きるか死ぬかなら死にもの狂いでいくのが日本の性質、不利になると「アイヤー」と逃げ惑う奴らには解らない精神性なんだろうね。

157. 日本よりベトナムのほうがもっとすごい。間接的に日本も助けられている。

158. 侵略者たる中華朝鮮連合軍が日本に返り討ちにされたというだけ負け犬の遠吠えで蛮族がー野蛮がー言ってるの惨めすぎるわ

163. よりにもよって修羅の国に攻め込むからだ。

176. 昔の日本とかでかいセンチネル島みたいなもんだろ。怖すぎワロエナイ。

179. 捕虜を盾にして防衛してきたので、こちらもお返しに同じ方法で攻め込もうとしたけど容赦なく矢を射抜いてきたとさ。

196. 日本人がそうなるまでには余程の危機的状況か怒らせるような事がないとな。中国ってモンゴル帝国をなかった事にしようとしてるようだね。この時代中国は存在しないから「中国4000年の歴史」が嘘とバレるののね。欧州でモンゴル帝国展を中止にさせたり「モンゴル帝国は大元だから中国だ」と言い張ったりしてるよ。

201.深く侵攻されたりまんがいち直に上陸急襲されたときのことを考えて幕府の本拠は京都ってことにしてたみたいな話をどっかでみたなあ時頼存命時代から長い間対策を練ってたらしいけど本当のところは知らない

203.負けた反動で反乱起こされてるし制海権失って海賊が活発化しているのにどこに見せしめとして有効だった要素あったの?そもそもモンゴル人だって数万単位で動員されている南宋、朝鮮人が多かったのはモンゴルには海戦のノウハウが無いからでしょ

204.騎馬軍団はよほど急斜面でもない限り山でも結構強いらしい。

205.※204急斜面は木曽馬が最強

207.いや、元寇の「後に」そのダメージのせいで治安が乱れまくったって書いてるだろ元寇棄民説って治安維持のための軍をワザとすり潰した結果治安が悪化しましたっていう元朝指導部をバカ扱いするひでえ説だ

211.東の外れの島国に大金叩いて攻め込んだら返り討ちにあったという話の時点で余程のアホでない限り周りからどう思われるかなんて計画を練る段階ですぐに分かると思うがそもそも棄民説の根拠となる資料は一切無いし

212.日本は金が出る。のどから手が出るほと手に入れたい土地。棄民を処分できれば目的達成などあり得ない。死んでも気にはかからないというのと負けてもいいというのとは訳が違う。敗北の噂は国の弱体化に拍車をかけることぐらい皆知っている。戦国武将も常に拡大政策をとることにより武将をつなぎ止めた。馬鹿なことを言うのは止めな。

213.弘安の役の後に元は第三次日本遠征のために海に慣れた兵の育成や民間船とかを転用してまで侵攻軍の整備に躍起になってるんだよそれに家来は民が疲弊してるから日本遠征やめましょうって諫めてるというね

216.モンゴルの常套手段。捕虜にした敵の兵を、敢えて死なせるような形で最前線に送り込む。結果的に、10万か15万か、宗の生き残りを処分したんでしょ?

220.別に元の肩を持っているわけじゃないよ。ただ日本の勝因は「神風、ラッキー」だけではなかったということ。運は味方しただけで、主要因ではない。護られるべくして護られた。元の敗因は、①士気の低さ ②宗の兵の処分 ③海戦を強いられ、馬も持ち込めなかったこと 日本の勝因は①士気の高さ ②統率のとれた戦闘民族 という事が言いたいだけ。

222.※220馬の持ち込みは出来てるよ元は日本遠征に備えて済州島だかどっかに馬の牧場を整備してたはずだし、弘安の役の元軍側の史料では台風後の撤退で臨時に馬をおろして収容人員を増やした話がある蒙古襲来絵詞でも両軍の弓騎兵が戦ってる場面があるから、少なくとも日本軍の印象に残る程度の数は実際に戦場にいたと考えるのが自然

225.決して朝鮮半島を擁護するわけではないけれど、朝鮮は反乱を手伝って欲しいと日本に援軍を求めていたはず。結局援軍は無かったけどその反乱で元寇が少し伸びたとも聞いたことがあるし。まあ、元をそそのかしたのも朝鮮だとしたら昔から割れてるなぁとしか思えないけれど。

227.※222狭くてボロい船で、そんなに馬を運び込めないだろ。馬も荒波の日本海を超え、ストレスと疲労に満ちてるでしょ。モンゴル兵指揮官と共に、数は限られる。

228.※220ツッコミばかりで悪いけど日本側は諸侯が好き勝手やってて統率は取れてなかったよ赤坂の戦いは敵を引きつけるはずが抜け駆けのせいで泥縄的に始まったからな抜け駆けしてでも手柄を挙げようとしてたから士気は高かったんだろう武士が強かったのは短弓では貫けない程分厚い鎧着と良く鍛錬された馬術、弓術の力だと思う

229.※225下手に手伝ったら最後「反乱が失敗したのは日本のせいニダ!」と子々孫々まで恨まれるからな。鎌倉時代の人もその程度の事は気付いてたんだろ。

230.鎌倉時代の主力武器は長刀だから元の槍とか刀より優位に戦えた。元は日本と戦の作法が違うとわかると、自由戦闘が許可されたので、元軍が装備してる珍しい物を剥ぎ取ろうと農民兵が元軍に群がった。武士に対しては人質は無意味だった。元軍の兵士は海に落ちたら溺れたけど、武士はだいたいフル装備でも泳いで岸まで帰れた。なお、十分な恩賞が与えられなかったので鎌倉幕府は債務超過で崩壊した。

231.※226棄民や処分は盾としてつかうこととは違うだろって言われてるんだよ文永弘安はほとんどショック材でしか編成されてないことになるんだけど

232.※228手柄もあるが、想像してほしい。こちらは日本防衛の総力戦だぞ?全体としては完全に統率などされていないだろうが、各部隊はしっかりと指令系統ができている。私が言いたいのは「元と日本の士気の違い」これだけです。戦いで最後に重要となるものは士気です。

233.最初に来た時に押し込めたのに、日本側の武士が好戦的過ぎて死を恐れないでどんどん来るから船まで撤収して、夜中には海賊に襲われて敗走次きたら土塁で毒矢届かず一方的に撃たれて海に逃げて増援待ってたら台風が増援も纏めて海の底へ元で最低の侵攻だったんじゃないかな

237.チンギスからムンケまでと、フビライの戦い方はぜんぜん違うから、南宋戦や帝位継承のために、フビライ軍はかなり現地(中国)との同化(漢民族軍閥の優遇)してんだよね、それゆえ元名乗った後ではさらに漢民族軍閥に依存する軍隊になっちゃった、元寇で日本にやってきたのはそういう部隊で、あんまり以前の性質持ってなかったりする、

238.※236だから、そこまで根詰めて練られていない(海上だし、練りようがない)。そのような理由もあって、元寇の第一目標はの残党の処分と言っているわけです。

239.文永弘安の役の日本の勝因を「元の目的は反乱分子の掃討にあったから」と主張してるんでしょ?処分さえできれば目的の達成ってことだよな?でも例示はあくまでも勝つために占領地の人員を前線に送り出してるわけであって全然別物なんだよじゃないと後詰の元の本体が来ていない説明できない?

240.※238明らかにコストと釣り合ってないし棄民説が予想でしかない以上分からん元南宋人の力を削ぐ意図があったにせよ第一目標として負けても良いと考えてやる規模じゃないそれなら直接粛清した方が早い

244.※240では、日本海と日本の武士をなめてたというだけの話じゃないですか。

247.※244文永の役の頃は舐めてたと思うよ3万の兵でちょっと脅せば降伏して降るだろうと

逆に弘安の役は15万の兵に植民用の農具まで揃えて本気だったと思う

249.元寇、弘安の役で江南軍が宋の兵士だったから処分のためなんて説は、もう10年以上前に否定されてる理由は江南軍が使用した船は、南宋軍が使用していた船で、兵士も同じく沿岸警備など重要な戦力だったこれが弘安の役で壊滅した結果、中国南部の警備、特に海上の警備力が大きく緩み、占領していたベトナムなどで反乱が多発する結果となり、元の衰退にも繋がっている。

250.※247どれだけフビライが本気だろうと、宋の兵士の士気が上がるわけがないのです。水上の、烏合の衆。しかし、それだけの数を駆逐したのは、流石に天晴れですね。

251.昔の武士は野獣みたいなのばっかだからな女を宛がって家族を作らせて守る物で縛らないと何するか分かったもんじゃ無いからなそこへ日常をぶち壊す元寇だろ野獣のごとく日本の武士が襲いかかればそりゃ驚くし悔しいからリターンマッチもするだろうよそれも負ければ頭にきて征日本省なんて役所まで作っちゃうよ

254.使者弥四郎を元の世祖に送っている。彼の言うことには、高句麗は信用ならないし、脅しをかけてくるので、新書も交流も辞めてると言ってる。元の世相が言う事には、よその国を奪い手に入れたいのだと漢族が嘘を言っている。が、漢族と日本が仲悪いので、協議させるために出陣させる。と言っている。それに、日本に送った国史を返さなかったとも言ってる。日本は以降いっさい使者も新書を送らない。

256.高麗が元をそそのかした結果起こった戦役ということを忘れてはいけない。

258.誰が否定したの?私は処分が当然の筋だと思うけど。モンゴルより遠く離れた地で、人民の多い宋を統べようと思えば、敵兵の残党処分は喫緊の課題です。元はヨーロッパ方面では上述したような戦法を取り、恐怖に因る支配を行ってきた。宋も同じと考えるのは当然のことでしょう。元は略奪の限りを尽くすこと自体が目的でした。チンギスハーンの有名な逸話に、こんなものが紹介されています。”チンギス=ハーンが晩年に将軍たちを集めて宴会をやった。チンギス=ハーンは将軍たちにたずねました。「人生最大の幸せは何か。」 将軍たちは「草原で家族に囲まれてのんびり遊牧をすることです。」と答える。 「それは違う。」チンギス=ハーンは言った。「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ。」”数々の話を見れば、フビライの性格も分かりそうなものです。まさか宋に法を敷いて統治しようなど、考えもしないでしょう。

259.元は三回目の日本遠征計画していたが、弘安の役後に中国南部~東南アジアで反乱連発して、それを取り締まれないわ、二度の失敗を見てクビライの指導力が落ちたと判断した、モンゴル王族がクビライの追い落としのために反乱を起こして、それの鎮圧にかかりきりになって3度目の日本遠征は取り止めになった

262.※258歴史研究者なら全てと言っていい元が大きくなった要因は「占領した国からも人材を取り立てて軍に組み込んで行ったから」だで書いたナヤン・カダアンの乱はクビライ最大の危機だったが、カダアンの軍が朝鮮に入るのを、文永の役で逃げ帰ってきた東征右副都元帥、洪茶丘や高麗、南宋その他の寄せ集めた軍が阻んで、クビライの勝利に貢献している

264.きっとこの時代の武士道は朝倉宗滴をぬるま湯呼ばわりできるレベルなんだろうな

265.モンゴル騎兵を最初に破ったエジプトのマムルーク達の事も忘れないでほしい。

267.※258昔の戦って戦場に近いものが先陣を切るのは普通、たとえば信長の越前攻略も先陣は越前衆が多くを占めてた、高麗も南宋も、日本に近いから戦力を出しただけだからあなたの説とるなら、処分と言うだけの規模の人数が遠征に駆り出されたか、が問題になる、で、当時の南宋軍は50万近くいた、それが南宋攻略でほとんど元側に吸収された、だからそのうちの10万程度処分したところで、元軍内の中国人部隊の割合変わらない、これは「処分」というほどの規模じゃない、中華大陸の感覚では

268.文永、弘安の役での二度の大敗北はクビライの権威を大きく傷つけて、ウルスを支えていた三王家が一斉に反乱を起こすほど危機に陥っている元も政治的に安定しているなんてことはなく、隙があれば追い落とそうとする勢力が入り乱れていたんだよ

272.元朝ってフビライの大遠征以降凋落したイメージしかないよ。宝抄とか流石に刷り過ぎだろう。やっぱり唐宋が何だかんだ番好きだな。

273.「モンゴル帝国は例外なく占領地の人や文化の徹底破壊を図った」ってイメージはもう過去のものだからな現地勢力との調整が重要視される場合も普通にあった少なくとも元朝上層部は南宋地域の民心の安定とかは気にしている

275.※273宗教に無関心だったからよくある宗教弾圧が無くて侵略者としては比較的容易に受け入れられた

276.何故元軍の士気が崩壊したかも知らんでしょ?弘安の役なら、東路軍が江南軍より先にまず橋頭堡となる地域を確保しているはずが、上陸もできず数か月も海上をさまよっていた結果

277.モンゴルって中東で中国式の宝抄刷ったり逆に中国で中東式の税制敷いたりと不味い事をやって中東と中国双方で破滅したじゃないか?一時的に世界の一体化を達成したから顕彰されてるけどモンゴルが与えた影響ってあんまり良いものがない気がする。

278.そもそも南宋が元軍に滅ぼされたのは、元軍が南宋人を殺さず奪わずを徹底した結果だぞ元の大軍相手に、5年間も襄陽を防衛し続けた呂文煥が寝返ったのも、元が彼を重用したからだ元軍の司令官のバヤンもこの殺さず奪わずを徹底したので襄陽陥落後、続々と南宋軍の兵士は元軍に降伏が続き、殆ど戦闘もないまま南宋の首都、臨安まで迫っている

280.モンゴルが良き敵に寛大なのは知ってるけどちと雑な統治をし過ぎだろうよ。中国を諸侯領に分けたらいかんだろ。

283.平家だったら元にもワンチャンあったのに・・・板東武者が総大将の時代にせめて隼人のそばに攻め入るとか割と暴挙じゃないかな・・・

284.日本は弥生時代あたりから朝鮮半島に出兵、派兵繰り返してるし半島国家は大陸国家と日本との間をうろうろしてたし多少はね・・・

287.夜襲は日本のお得意芸なんやね

288.>野蛮民族より野蛮だったという事実  鎌倉武士とか戦国武者がドン引きするレベルの鬼畜やで。野蛮なんてかわいいもんやない>あの辺りの九州の人らが団結するってもう軽いスーパーバーバリアン大戦やろなぁ九州の一番南には命捨てがまるのが得意技の薩人マシーン連中がおるしな

290.鬼島津の先祖達だろ勝てるわけねえよ

296.絵を見た感じでは。騎馬武者や矢を射ている蒙古兵に比べて、逃げてる奴らの方がヘタッピだろ。それに騎馬武者のポーズが明らかに追撃する物ではない。敵の攻撃を避けるために頭を下げている形。あれは敵の攻撃の中、勇猛果敢に突撃しましたって場面。日本側が劣勢と見るのがおかしい。

297.もともと日本の豪族は戦闘民族多くてその調停役としての大和朝廷が大きくなった九州地方や近畿沿岸部の豪族は半島に権益を持ってたし一部属国のようなものも半島に存在してたのは近年の研究でわかってたんで、半島で日本と主に権益を争ってたのが大陸と高句麗で百済の迷走に巻き込まれ権益争いで敗れ日本は半島での影響力が低下大陸と半島が元に統一されたのも日本はしっかり情報収集して知ってたわけで大陸側の日本進出は以前から警戒されてたことさらに日本の支配体制が日本有数の戦闘民族板東武者が中核にいる鎌倉幕府で焦土作戦を実行し更に台風まで来て元には弱り目に祟り目で帰っていったんじゃないかが資料増えた現代の通説

298.大陸と地続きだったらそもそも武士の戦法も変わってくるよ。まぁ、その場合は国の形そのものも大きく変わってくるだろうけども。地続きだったらって仮定になると元軍が本隊で押し寄せてくるどころではないレベルで条件がかわる。

300.そもそも現代の朝鮮人の祖である高句麗はもともと大陸の非漢系民族が漢系民族に押し込まれて半島に逃げ込んだのが興りだったといわれてるもともと半島に住んでた民族は日本や高句麗と同化して存在しないといわれてるね

302.普通に鎌倉武士はチートだけどな弓矢の威力も飛距離も鎌倉武士の方が上で、しかも蒙古兵の矢では鎌倉武士の鎧は貫けかったらしい。一方布切れみたいな蒙古兵の鎧はブスブス貫かれたらしい。しかもそんな布切れみたいな鎧だから日本刀で一刀両断されまくった。そんな弱兵ではどうやっても蒙古に勝ち目は無かったって事。

303.最近見た血液型分布で見ると日本と韓国は酷似していて、韓国と中国は違ったから‥血液型分布で見ると日本の方が大陸側へ押し込んでる(大陸側が押し込むと大陸側の血液型分布になるはずなんで)邪推すると朝鮮人って大陸(シナ)に物凄く嫌われてるな。

304.沼地(田んぼ)に弓騎馬とか相性悪いし‥実際東南アジアは侵略されて無かったはず。

305.人質とっても、人質ごと切り殺しに来るから元軍大パニック単騎で、多勢(元軍)にどんどん突っ込んでくるから元軍大パニック

307.※303高句麗のあった場所はもともと大陸の権益地だったんだけど高句麗が占拠実効支配したのよだから大陸の王朝は元までの間にも度重なる奪還作戦を繰り返してたんだけど大陸が不安定だったり安定してる時期には高句麗にチートな宰相が発生したりでなかなかどうにもならんかった歴史もあったり

309.西方や、東南アジアやベトナムは本拠地から遠いからな。日本は海があるとはいえ、目と鼻の先だ。そんな所に世界のモンゴル帝国に逆らう国がある事が異常なんだよ。普通は、属国に成るか、攻めてきたら降伏する。モンゴル軍と聞いただけで、逃げて行くのが常識なんだ。それを使者の首を刎ねて、ふざけんなとは、どんな無茶苦茶な国なんだ。日本は世界一の野蛮人の国だったんだよ。おまけに頭がいい。侍のおかげだ。貴族支配ではこうはいかない。海際で止めておけば良いものを、小船で船に乗り込み、白兵戦を仕掛け、命を的に突っ込んでくる。モンゴル人も、こんな野蛮人とは戦えないと、戦意喪失して、逃げ出した。

312.歴史学者の見解では、最初は結構日本やられたんじゃない?その後、次は本気で攻めるぞと脅しをかけたけど北条が使者まで斬首したからフビライは怒って支配したばかりの地域の兵士10万と朝鮮の兵士4万を送り込んだけど日本は防御設備建設済みで、元軍は陸上に陣取ることが出来ずに船に押し込まれて苦戦している間に台風まできて良い船に乗ってた武将クラスとか運のよかった兵しか生きて帰れなかった感じ

314.※312 1回目九州上陸した元軍は菊池武房が100人で赤坂の松林の中にあった元軍の陣地を夜に奇襲。襲ってきた人数が多大であると誤解した元軍は撤退(赤坂の戦い)鳥飼潟を通って撤退しようとした所、日本軍に合流しようとしていた竹崎季長ら5人と遭遇。竹崎季長は他4人の配下に突撃を命令。まさかたった5人が突撃してきているとは考えもしなかった元軍はまた大軍に襲われたと混乱し、散々にやられるが襲ってきたのは5人だと気づき反撃を開始。が、その頃には後続約100人を引き連れた白石通泰も合流し、続いて他の日本軍も続々と参戦。副将が負傷した事もあって元軍は撤退した。(鳥飼潟の戦い) 元軍は「このまま戦い続けても私達が死ぬだけで何の意味もない」と撤退を開始。高麗の将軍、金方慶は「背水の陣だ。船を焼き払い、決死の覚悟で戦おう」と主張したが採用されなかった。そして撤退途中、台風に遭遇したと思われる。(対馬沖ではなかったかと推測されている)背水の陣なんて勝ってる側が使う戦術じゃあないよ

315.※296 そもそもまずはあそこがどういう場面かを理解しないとあれは「竹崎季長(著者)が直属部下数名のみで無茶な突撃をかけたら案の定ピンチになったが、後から来た白石通泰の部隊に助けられた」という場面ピンチになっている竹崎季長が追撃の姿勢になっていないのは当たり前、後ろから来る白石勢はどう見ても馬上で前方射撃(追物射)の体制を取っている最終的には元軍を撃退する場面だから逃げてる元兵が本来の絵なのは当然

316.違うで、人肉食の朝鮮人がほとんどだったから対馬で捕らえた捕虜を船のへりにぶら下げて干し肉にしとったんやで

318.※309 「野蛮人」ならモンゴル人こそアジアでも最下層に近い野蛮人だし、彼らも自覚していただろう。おまけにモンゴル帝国は、ユーラシア全域の文明人も野蛮人も相手にしてきたから、そんなもの屁でもないだろう。舐めてかかって襲ってみたら、精悍な最優秀民族だっただけ。

319.騎馬軍団に山は無理でしょ現代の国道並みに広い道路でもあれば別だけど、騎馬軍団というぐらいならかなりの馬がいるはずだから藪が生い茂ってたらもう戦術として馬は使えない

320.弘安の役のときなんか六波羅探題から派遣した6万が到着する前に決着するという。九州の武士団強すぎだろ。てか、九州ってどれだけ動員できるんだ?

321.※303弥生時代末期から古墳時代にかけて日本人は朝鮮半島南部に渡って支配(北部は魏など中国王朝)してるしな。朝鮮半島は古代中国人、日本人、満州族の順に支配者が変わってる。

323.棄民説はありえんでしょ上でも出てるけど死なせるために送りこむ兵たちと一緒に海の藻屑にするために国力を疲弊させてまで大量の船を用意してくれるとか気前良すぎですわそこまでして旧南宋軍を捨てたいのなら第三次日本遠征計画がことごとく国力疲弊を理由に中止になったのもおかしな話だし全く成立してない

325.まあ日本がモンゴルと陸続きだったら、相当蹂躙されてたのは間違いないよ日本の地形がモンゴルと全然違ってて助かった山、谷、沼、田圃…

326.今の対馬・壱岐の島民は元寇後の入植者の子孫という事実鎌倉が見殺しにしたのを差し引いても、島民ほぼ全滅させるモンゴル軍と高麗マジえぐいぜ

330.※4陳舜臣が、そのような説を言っているのは知っているけど、いくらなんでも非現実的でしょ文永の役は、そもそも南宋が滅びる前だし、弘安の役の計画も、南宋が滅びる前から建てられているし

333.※331モンゴル帝国やりくちから考えて粛清のための遠征だというのはないせいぜい遠征ついでににいらないやつらを盾代わりに程度のものでしかなかっただろただ棄民ってのはあながち間違いないかもしれない、それだけ勝っても負けても大陸での口減らしにはなるから日本も農業化で人口が増えすぎたのを半島に派兵して口減らししてた時期があったからな

334.鎌倉が見殺しとか別にそういう事ではないぞ、そもそも守護とはその国の警護役、まずは変事にそこの国の守護が当たるのが当然そしてそれでもかなわないなら防衛しているうちに援軍を送る、しかし、当時の兵站運用は稚拙だので、守護や御家人の三々五々の終結に頼らざる得ないので全軍終結から有効な戦力の到着までには時間がかかる半島側が道義的マウントが崩れそうなので対馬壱岐を見殺しにしたとすり替えるためのスレだな

335.※331結局棄民だったという一次資料の無い妄想だし、君の言う常套手段というのはソ連よろしく督戦隊置いて制圧した兵を敵に突っ込ませる戦術でしょ上陸戦である今回はそれに当たらない何故なら本隊が居ないから負ければ莫大な投資や海上戦力が消え勝っても反抗的な兵に土地を与える事になる全く得しない話で妄想の余地も無い

336.『高麗史』金方慶伝によると、元軍は三郎浦に船を捨てて、道を分かれて多くの日本人を殺害しながら進軍した。進軍中の都督使・金方慶率いる高麗軍(三翼軍)の一翼である中軍に日本兵が攻撃を仕掛けてきたが、金方慶は少しも退かず、一本のかぶら矢を抜き厲声大喝すると、日本兵は辟易して逃げ出した。追撃した高麗軍中軍諸将の朴之亮・金忻・趙卞・李唐公・金天禄・辛奕等が奮戦したため、逃げ出した日本兵らは大敗を喫し、戦場には日本兵の死体が麻の如く散っていたという。元軍の総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は「蒙古人は戦いに慣れているといえども、高麗軍中軍の働きに比べて何をもって加えることができるだろう」と高麗軍中軍の奮戦に感心した。

337.『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった。金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」クドゥン「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」

338.高麗王は、征東等処行中書省の副丞 つまり日本侵略戦争が成功すれば、副総督の立場、植民地権益としての利益は見込めた、何せ日本は「金」が出る国だったから。

343.※331兵だけでなく船を始め大量の道具や資材までドブに捨てた理由も 敵に回った場合の危険性についてもさっきから全く答えになってないんだがちなみに日本遠征計画の軍役への不満が原因で起きた反乱の一つでは純然たるモンゴル系の勢力である反乱軍をフビライは高麗等の征服地の軍も含めた官軍で討伐しているモンゴル系の利益第一で高麗や中華地域の軍民を始末したいなら反乱を鎮圧する必要無かったよね

348.それでしょうね。鎌倉幕府の件、聖徳太子の件、鎖国の件などで、昨今日本の歴史改変が騒がれている。(天皇の退位も同等か?)これらは神社の冒涜や、自動車テロと密接に関連しているだろう。行き場を失った朝人が、日本を徹底的に冒涜したい破壊衝動に刈られているのだ。終末は近いね。

351.宋・高麗を棄民・処分扱いはちょっと雑かな降伏した将家を取り込んで膨張していくのがモンゴル帝国のビジネス(?)モデル正面戦よりも示威&外交交渉(都市単位でね)で降伏させ、彼らの部下諸共自軍に加えていく徹底抗戦し続けて負けると、◯の指摘の様に街ごと蹂躙&肉壁にされる一方降将は手柄を立て、皇族や直系の部下との婚姻などで同化していく。使えない奴は勿論途中で使い潰されるだからね、この降将を一回限りの肉壁扱いするのはちょっと違う(使い潰せる軽い存在なのは確か)つまり「宋・高麗は冷や飯食っている外様の出世争いの結果」が相応しいかもしれない

353.そうですか。しかし歴史を学ぶには十分な資料だと思いますよ。私は世界史を全体の変化を関連付けながら、面白く読ませてもらいました。特におかしな点も無いと思いますが、あれば指摘し、「自分の主張」をしっかりと出してくださいね。一方的に否定だけされても、話しようが無い。

354.※351異論ありません。モンゴル人の気質なんでしょうね。タタールの軛というか、周りは災難でしたが。

361.◯は棄民という言葉を自分勝手に定義してる。棄民っていうのは、国家が国民に必要な保護をしないことで、食糧難からくる口減らしや、戦争時に住民が敵国に蹂躙されるがままにすることを意味する。でも、モンゴル帝国がやってたことは保護しなかったどころじゃないからな。奴隷が当たり前の世界で、人を殺すことになんの呵責もない民族だから当然ちゃあ当然だが、死兵であることを強いたり、肉壁にもする。当然、死んだらポイ捨て。それでも、モンゴル帝国にとっては征服活動の戦力になってたんだから棄民ではない。

370.ちなみに、モンゴルの連中は残党の処分なんて高尚なことは考えてないと思う。単純に処分したかったら射撃の的にでもして楽しんだだろう。東路軍の高麗兵、江南軍の旧南宋兵が戦闘で何人死のうがそんなもん構わないと思ってただろうが、単純に無為に死んでいいと思ってはいなかった。それは、范文虎が大量の兵を失って帰国したときは処罰もされず(戦闘や台風で死亡したと報告したと思われる)、あとで棄ててきたとわかって一族処刑されてることからもわかる。鷹島に置いてくることで兵士の始末には成功してるんだから、兵士の始末が目的のひとつなら范文虎は処刑されなかっただろうね。

374.モンゴルが世界を征服して偉大なのは分かるけどバクダットの図書館を破壊したのは許せない。

375.日本は遣唐使を廃止したり、大陸情勢はよく分析している。ただ「フザケンナ」ってことでしょ。今の特亜の態度と、日本の保守派の反応と一致するけど。

378※370そもそも上でも出てたがリョブンカンみたいにフビライのほうから奮戦を認めてスカウトしてる例もあるわけだしな旧南宋軍を不穏分子としてしか見ていないなら反乱の旗頭になりかねない南宋軍の名将を重臣にしたりはしないだろう歳のせいか元寇には来なかったが

382.宋や高句麗使ったのは船舶の建造と航海技術持ってて根拠地が日本に近いからっていう至極単純な理由だろう内陸の騎馬民族にはないものを持ってる配下にやらせたってだけの話それ以外の理由もあるかもしれんがこれがもっとも大きな理由だろう

395.大海を遠征して上陸しないといけない。これだけで騎馬を主力とする軍には、超ハンデ。しかも、たどり着いた先には、世界に稀な重装騎馬弓隊が歓迎準備済み。さらに日本の地は平地が少ない+湿地ばかり(稲田ばかり)ので、軽装騎馬の迂回機動戦術が使えない。元軍の誇る騎馬弓は短弓なので、武士団の長弓に射程と威力で劣る。さらに気候の関係上、そもそも乾燥帯で作られた元軍の弓が、湿気の多い日本で満足に使えたのかも怪しい。相性が悪すぎ。



20170506日 今の若者からしても昭和のオッサンが怖いのに、その前の日本人だからな。正直、逃げる、負ける、怖いなんて、一言でも言えば一族末代までの恥となる時代。そんな連中相手に戦うなんて日本人からみてもゾッとする。日本人からしても日本人が全力で打ち込んだら、経済だろうと、戦争だろうと、誰も止められない、勝てる気がしない。

<以下、日本人からの反応>

2.九州なめんな!元ども!

3.>ワイ全く知識ないんやけどあんな広大な領地維持しながら>おまけに海を渡ってよく分からん国に派兵するとかアホと違うか? 朝人が海の向こうに分捕り放題の島国があるニダよって耳打ちしたんだよ。対馬ではやりたい放題やってくれたけど、その後日本の武士の恐ろしさを嫌というほど味わうことになる。

4.元寇は、南北のを滅ぼした時、仕えていた兵を処分するために行った。反乱分子の掃討だね。

やる気の無い兵士が木の船で荒波の日本海へと送られ、士気の高い日本の武士の前に壊滅した。

本来の意味は、反乱分子の掃討だから、十分に目的は果たされた。

6.あの世界中で暴れまくったスペイン人の宣教師も「こいつらバカみてえに戦いの練習してるこの島は無理かも」って手紙書いてるしな

7.モンゴル軍は必ず直前に併呑した国の兵を前線に立てるまあ肉の盾だな第一次元寇は高麗の兵、第二次の時は南宋の兵が前線に立てられた日本軍が相手したのは主にこいつら

9.長い船旅で疲弊仕切ってて戦える状態じゃあ無かったでしょうし。

11.※9対馬を殲滅したから長いわけでもないで、老人は消し若者は二足羊とおもちゃで対馬は何回か殲滅されてるで防人という兵士しか対馬に住んでいない時期もあったくらいだよ

12.当時の日本はまだ武士だった時代めっちゃ重い鎧を着たまま、馬に乗りながら弓を打ってくるという至難の技を当たり前にやったり、計画はばっちり整えたり、元の弱点を見抜いたり、そしてくそ重い刀で無双やってたその強さはスパルタかな?と呼ばれるほど強かった、元はびっくり!後にこれを大日本帝国の根源と呼ばれた

14.つまり属国の軍事力を削るために島国を侵略させたわけか

16.適当に物量撃ちの元の弓兵に対して日本側は那須与一だらけだったとか

17.兵站を整備できない困難さを抱え、脅して支配するといやり方が通用しなかったということ。

恐らく、そういう事態を把握し、適切な対抗策を打ち出せた当時の日本側の分析と判断力の勝利。最初の外交戦に屈していたら、現在の日本はなかった。具体的には今の朝鮮人のようになっていた可能性が高い。(プライドがない)

19.当時の兵種は日本武士は重武装長射程弓騎兵 モンゴル騎兵は軽武装単射程弓騎兵 ヨーロッパ騎士は重武装白兵騎兵 モンゴル騎兵は機動力と射程に勝るので、大平原でヨーロッパ騎士にワンサイドゲーム日本においては、日本の地形に特化した日本武士が重装甲と長射程でモンゴル騎兵に勝った。大陸じゃ難しかったろうね。

21.やっぱり戦争は上陸戦が一番難しい。

23.中高の歴史資料集とかに出てる蒙古襲来絵詞、竹崎季長が先駆けして弓射でボコられて馬が血吹いてるとこまでしか載せてないから日本側ボコられてたように見えるけどそのちょい先では弓射たりやり構えたりした蒙古兵に混じって逃げ出す蒙古兵が描かれてるんだよなあそこ見るとそこまで一方的だったとは到底思えん

26.唐入り(秀吉の)が日本の負けって意見を見かけるな。最近の風潮なんかな言い分としては戦略目標を達成できなかったからというものらしいけど極論でも暴言でもなく秀吉が死んだ時点で戦略目標が撤退になったわけで、しかも敗走したわけでもなく講和を結んでの撤退だから言うても引き分けなんだ

29.遊牧民族が海洋民族の住む島国を攻撃するのはムリ、特に当時の船はサイズも強度も輸送力も不足していた。あの重い刀を持ちながら、深夜に泳いで敵船に単身乗り込み全員始末してくるような相手に遊牧民が勝てるわけがない。朝になって船団の中の一隻から一人も船から出てこなかったらどんな相手でもビビる。防塁を作り上陸を阻み、例え陸上戦でも長弓で射程外から部隊を削られ続けたら戦意も落ちる。

31.>2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた水城は白村江の戦いに負けた時大陸から攻められた時の為に作られたもので元寇の時よりずっと前からあったぞ文永の役の時は大宰府に篭城して本州からの援軍を待つ作戦だったが思いのほかあっさり撃退出来て水城の出番は無かったが

34.元軍って言っても、ほとんどは半島人だったってことが分かってる。やつらは、対馬で暴れまわって、虐さつや強かんを働いたからな。そんな土地をわが物だと主張し始めているのが韓人。

35.モンゴルはフレグが中東遠征してた時にフビライとアリクブケが後継者争いおっ始めてそれが決着してからもカイドゥのせいで東西分断状態になってて、その時期にやったのが元寇仮に全軍動員出来る状態だったとしても、海の向こうの山がちで草原もほとんど無い土地を、遊牧民の誰が欲しがるかねぇ

38.※35黄金の国ジパングの話があったように当時の日本は大量の金を輸出していたその主な輸出先がモンゴルと敵対していた南宋文永の役は南宋の資金源を断つため

41.×ウッキウキ〇イヤイヤなお大陸人も同じ、やる気があったのは半島人ぐらいだが武士が予想以上に強くて痛い目に合いすぐ逃げ出した模様

45.>>39腐敗した死体を敵陣に投げ入れるなんてのは古来から常套手段だよ。敵の戦意を喪失させるのに有効らしい。特に船に投げ入れたら臭いは半端ないだろうし、ずっと消えないから24時間何日間も苦しめられて効果絶大だったんじゃね?

47.コピペの半分くらいはここ最近ネットで急に見るようになった話で日本・元・高麗のどの一次史料にもない話だから注意するんやで焦土作戦で博多略奪とか死体を元の船に投げ入れた はソース聞いても答えが返ってきたことがない中途半端に一次史料にある話を混ぜてるとこがまたタチ悪い

49.腐敗した死体に矢を突き刺しておいて毒矢にするんだよ

50.※19武士はむしろかなり短射程射撃を重視した弓騎兵やぞお互い重い鎧をぶち抜かなきゃならんから攪乱・離脱とかをよくやったとされるモンゴル系騎兵のほうが長射程重視でしょ

51.海がある時点で元には相当不利上陸できたとしても大規模な騎馬隊を好きに展開できるほど日本広くない

52.欧州方面の戦いは多くて1~2万の世界なのに上陸作戦に15万使ってるんだから十分本気で攻めて来てたよく棄民もかねていたと言われてるが貴重な水上戦力をすり潰してまでする事じゃない結果的に東側海域の影響力を失って倭寇に苦しむ事になったし

54.※42 10万以上の軍を動かしたのってモンゴル帝国史上日本遠征以外には数えるほどしかない物凄いコストだし海を渡るなら船戦に慣れた高麗や南宋の軍を使うのは当然だし真面目じゃないわけない

55.結果、重要な者を戦死させてその後国が滅びたしな

57.棄民説よく見かけるけど、逆に言うとそれだけ九州制圧に自信があったし、本格的な入植する気があった証左とも思えるんだけどねもしくは、九州制圧後を見据えて九州での耕作、補給基地化を考えてたって説もあった気が

58.※34半島人もいたけど大陸の連中もいたと思うよ。元に侵略されてさらわれた人たちが、まぁ、いろいろあって遺体で帰ってきたんだけど、手に紐を通されてたそうで。これ、通州事件で日本人も同じ事やられてるし、中国に侵略されたチベット人も手に針金を通されて逃げられないようにされてたっていうし、大陸の連中の常套手段なんじゃね?

59.※54半島はその時代には船を作る技術もあった、李氏朝鮮ではなかった

60.強国造りは、毎日100円をこつこつと貯めていく様な気の長い作業。国内の地道な努力が必要。金融の世界でも、グローバルに活躍するユダヤ人の祖父母達は100円にこだわり大切にする。

62.どっちかという50年後は、中韓は地球から滅亡消滅ロシアはモンゴルに毛の生えたような弱小国通貨価値も軍事力も衰退したアメリカに代わる覇権国・日本

66.自分の爺さんですら別次元の生き物なんじゃないかって思う程のバイタリティだった。明治生まれで兵役も生き抜いて、激動の昭和に今の自分と変わらない年齢で一文無しで大陸に渡って起業までしてる。しかし貧乏が当たり前の時代で、こんなの特別じゃない。今の停滞した現実を見ると、2世代前、こんなのが普通にゴロゴロ居たのが信じられん。鎌倉武士に至っては人の皮を被ったオーパーツな気がする。価値観も、武器の差は有れ戦闘能力も、現代の基準からは掛け離れていそう。

67.最優秀民族・日本人こそ世界のお手本「強国に囲まれた島国という共通点をもつ日本に英国は見習うべきではないか?日本の成功した原因を考えてみるに、そのほとんどは日本人全体にある軍人精神と自己を犠牲にする愛国心とにもとめられるだろう。どのようにして日本の連中はそんな愛国心を抱くようになったのか。アッパークラスの少年が、父祖である侍(つまり、日本の騎士)の騎士道を学び、大きくなればそれを実践し、さらにはミドルクラスやワーキングクラスに教えたからである。つまり、彼らは子どものときに始めているのだ。われわれのイングランドにも、中世の騎士のなかに振り返るべきすばらしい先祖がいる。しかし、わたしたちは、彼らのまねをすべきなのに、そうしていない。もし子どものときに、先祖の愛国心を学び、その名誉と自己犠牲という理想を実践に移せば、われわれも日本人と同じくらい、どんな外国の侵略にも負けない強国になるにちがいない。」ベーデン=パウエル 1904

70.朝鮮出兵は明の重税に苦しんでいた朝鮮人が積極的に物資をくれたおかげで驚異的なスピードで進軍ができたんやでなお、日本も重い年貢を取ると聞いて寝返った模様

74.※70当時の朝鮮に大規模な日本軍にくれるほどの物資があったのか?進軍してくる日本軍の威容に腰抜かしたまま眺めてただけじゃないの?無能な奴隷民族が抵抗したところで勝てるわけないし、「ああ、これが次のご主人様かあ・・・」ぐらいの感覚でしょ。

84.逆に高麗の船は頑丈だったって書いてる文献があったり旧南宋軍よりモンゴル+高麗その他の艦隊のほうが台風の被害が少なかったって記録されてたりする。まあ船の質だけじゃなく停泊してた場所とかにもよるんだろう

86.島国というだけで百個師団相当の防衛力を有する、とチャーチルやったか英国の偉い人が書いてたわ。ナポレオンもヒトラーもドーヴァーは渡れなかったし。

87.朝鮮出兵で日本軍のキルレシオは50だったんだけど、こっちが50人殺してやっと1人殺られる計算、これで負けなら勝つ戦争なんて無いだろ。

88.元の船団の兵站は現地調達の人間狩り。船側に死体を吊り下げ干し肉にするっていう悍まじさ。奴等の正体を忘れちゃいけないぞ。

90.元の強さは広大な平地でこそ発揮できるのであって山岳地帯だらけの日本に海越えて来たって勝てるわけねえよ

92.※76白人にやられたんじゃなくて、「アメリカの物量だけ」だろうむしろボッコボコにされたのは英蘭など白人側だよね

93.女連れてきてる時点で侵略してそのまま居座る気マンマンだからな。皆〇しにするのも当然といえる。

97.服属地の兵士が先陣を切らされるのは当然だが、負けるために行うと言うことはない。服属地が増えれば先陣の兵士も地位が上がる。必死に戦うことについては変わりがない。

99.船作るのに手抜きしたとか言う意見もあるが、近年の海底の発掘調査で出てきた船はかなりしっかりした作りだったんだよな。

101.これ作らせたのは恩賞貰った後だから、書き加える必要ないし絵師に再度依頼すればいいのにそれをせずに、蒙古兵を別人が描いているってのはおかしいと思う追加された絵に使われた塗料が鎌倉時代当時、存在しないものだった説があったかととは言え、江戸時代末期にズタズタになっていたものを繋ぎ合わせたのが現在残っているものだから真相は闇の中(修復中に散逸した部分を、江戸時代の絵師が描いた可能性もあるし)

105.※29各個撃破が出来たんでしょうね。小舟で寝込みを襲ったということもあるが、数隻の小舟で囲んで乗り込まれたら相手は恐怖だっただろう。真っ暗だから助けに行くことも出来ないし。毎晩少しずつ全滅させられたら戦意も喪失するだろう。

106.元寇が、壱岐島を荒らし回ったので飯が食えなくなった。このおかげで壱岐倭寇ができ、中国沿岸、東南アジアを荒らし回った。台湾の鄭成功もこの一人。中国は倭寇のせいで鎖国をするように成った。皇帝「日本の役人、倭寇を取り締まれ」日本役人「元々の原因はそちら。捕まえても、恩情を示せば辞めるでしょ」

107.でも日本は運が良かったよ。将門の乱、前九年後三年の役、それに続く源平合戦のおかげで武家政権が出来あがってたから。

108.>単体で敵集団に突入して10数名切り殺して名誉の戦死を望む軍団大東亜戦争の頃と全然変わってねえ現代もカロウシ戦術でデフレという最大の敵と戦い死んでいくやつがいっぱいいる

109.日本ばっかり過去の侵略行為がーとか言われるのに半島人にはなーんもなし。ふざけんな!

112.生きたままですよ、使った女は汚れてるので波にあてて洗って又使いまわし、死んだら干し肉にした

115.まあ当時でも使者処刑って「かかってこい、相手になってやる」って意味だしね手紙の内容も「友好してね(威圧)」みたいなもんだしなお、幕府が手紙の内容について助言求めたのが南宋から亡命してきてた僧侶だったんで、バイアスかかった可能性も

122.鎧武者海に落としたのに泳いで帰っていったって話も聞いたんやけど…

124.イタリアやスペインが過小評価されてる。この二国は中国やロシアがさんざん苦労しても作れないまともな空母を自国の設計と自前の技術で余裕で作れる。

125.オゴタイもバトゥも親父に輪を掛けてクッソ有能だったからなーオゴタイがあと10年ぐらい生きててくれたらその後の白人のいた世界もなかっただろうに

127.武装して鎧を着たまま泳ぐのは日本古式泳法の基本だよ。

130.日本刀使ってないわけない全力で斬りかかって来るから近接戦闘でビビりまくりよ

133.※130元寇の頃は刀の全盛期だなよく槍の方が使われていたと言われるが槍が出てきたのは鎌倉後期なんだよな

137.第二次大戦で得をした連合国はアメリカだけだからな植民地経済に依存していなかった日独はむしろダメージが少なかったという

138.元寇の武将が皇帝に嘘を言ったんだよ。元寇はかなり戦いましたので、体制を立て直して、また、攻めましょう。ところが、捕まえてた捕虜が、迂闊な事に逃がしてしまい、この捕虜のお陰で嘘がバレてしまい、皇帝はカンカンに怒ってしまって首を跳ねたんだ。

140.神風で勝ったと思ってたが小国のクセに鬼畜な戦闘狂なら「島から出ない内は放置しよ」と、なるんだな頑張ったし強かったかもしれないが、何故かカッコイイとは思えない現実

142.元寇の教訓は中韓の嘘には乗るな。倭国のせいにして、朝鮮人も中国沿岸で海賊してる?日本で罪人は蒸し焼き。

145.槍は室町初期の南北朝時代鎌倉までは騎乗して弓がメインで近接と下馬用に大太刀と薙刀

146.族滅という恐ろしいことが平然と起きていたし呼吸をするように殺しあいが当たり前だったしな

人質ごと殺しにかかるから捕虜を盾にしても意味がないってきちがいの時代だからな

148.台風の時期にまで海に長いこと居座ってたら台風被害に会わない方がおかしいよねって話だよ

149.鎌倉武士団の軍事力にモンゴルも高麗も宋も敵ではなかったと云うことだ。日本側は自覚が無かったのだろうが、当時は圧倒的に鎌倉武士団が世界最強の軍隊だった。

153別にウキウキじゃないだろ。宗主国に命じられて仕方なしにやってきた朝鮮半島の民族が殆どだったと思うが。

154.元寇と言っても中身は八割が中国人(江南と漢人)、一割が朝鮮人(高麗)、残りの一割がモンゴル人と少数民族の連合軍なんだよね

155.日本側も武士の時代になってキレッキレッの一番強い時期だったしな

160.槍が主力に移ったのは南北朝だが生まれたのは鎌倉後期と言われてる

161.※154何度も言われてるが、征服した異民族が数の上での主力になるのがモンゴルの基本編成だぞモンゴル人自体、主力になるほど数が無いんでな

162.戦国時代の九州はまとまってれば毛利以上に天下取りに影響を与えたと思うけど。なんせまとまらない。というか、島津の感性VSキリスト教の狂信者VS基地外という地獄絵図('A`)もし選べと言われたら間違いなく島津を選ぶと思う。

1633回目を画策してサハリンに集結したがフビライが死んだ。また日本の武士が強かったのは 主戦場が船だったから乗り移ってきた武士の剣には高麗兵モンゴル兵は鎧が弱いために 串刺し状態だった。馬が使えないのが致命的。最初武士は戦法が違うので戸惑ったが二度目はなれたものだった。また個人戦になると武芸の練度が武士のほうが圧勝していた。モンゴル兵の中の宋兵高麗兵は移住の目的でクワや 鋤など農業の道具までそろえて来たが夢は破れた。モンゴル兵にしてみれば今までの経験は全く役に立たない別の世界と戦ったことになる。残虐さにおいてはモンゴルンの上を行く民族であった。鎌倉時代までの日本の歴史は縄文以来ずうっと戦争の時代であったからだ。

165.キリスト教の奴にいたっては、家臣の妻をNTRしまくるしな

167.船酔い説には反対。10日ほどのクルージングに参加したことがあるが、酔わない人は酔わないし、すぐ酔う人もいる。自分も初日の夜にひどい船酔いにかかったが、しばらくするとけろっと直った。みんな一日で慣れる。

168.承久の乱だっけ?関東武士だけで20万を東海道、中山道、北陸道から分進合撃22日で京まで行ってるの。高度な機動戦もこなす武士本隊残ってるのに、博多占領されたとして元軍にその後の勝機とかあるんかな。

170.※166一応、朝鮮の反乱軍から日本は救援要請を受けてる。結局は無視したが。その対応としての元寇ってのが分かりやすいけど、仲介が朝鮮人なのでいわずもがな。

171.※166いや、複数回来て他が使者と言いながら国内情勢探ってたから、二回目以降は同じように探ってたからスパイと判断されて処刑されたスパイの結果、寝返りそうな有力御家人と通じられたら危なかったから、切り捨てて正解

174.それはまた別の話だろ屁理屈をこねるなよ。太平洋戦争(大東亜戦争)の目的であった、南方での資源地帯の確保は出来ていないんだよ。その上で無条件降伏を飲まされて、独立国としての立場も一度失っている。間違いなくあの戦争には負けたんよいまの日本があるのは一度全部失ったあとに外交や経済の世界で戦って勝ち得た物が積み上がった結果だからあと白人は追っ払えてないぞ。横須賀とか沖縄とか見てみろ

175.※168多分無理だと思う。あと日本には家畜を飼うための牧草がほぼないので元の馬を長期間維持するのは無理。あと、当時の武士団は外洋艦隊戦は苦手でも船上戦闘は得意だったりするのでなおさらタチが悪い。陸上戦闘は日本の地形からすれば武士団が圧倒的に有利だし、弓も何気に日本の方が射程長いしな。

176世界帝国”元”との闘い、なんて明治以後に世界史知って初めて気が付いたんであって鎌倉幕府はそれなりに真剣だったが、日本史的には実は九州の端っこで起きた椿事にすぎなかったんだけどね

177.※174一応、日本は統治機構、軍は残ったわけだし。国家として負けたけど国が無くなったわけじゃない。

178.元も高麗にそそのかされて乗ったのが運の尽き。

179※176それなりに真剣どころか、最初の元寇の後に報復としてこっちから高麗征伐を計画してたりしたけどな

180.※177俺、自衛官だけど自衛隊は帝国陸海軍とは全く異質の存在だよ。軍は残ったとは言えない。権限がなさすぎる。

181.朝鮮が救援求めてきたとか元の使者がスパイしとったとか知らんかった

184.※180一応手続きとして海軍は解体されてないんだよね。海自だけは旧海軍の後継といって問題無いかと。性質が変わったこととはまた別の話。

187.※178強大な元も「かかわったら負け」の法則に引っかかったのか...さすが全ての人類の足を引っ張る見本だなあの国は()

189.※186戦争の勝ち負けと国体護持はちょっと違うのでは?一応、天皇陛下は守ったし。現行憲法のあやふやな言い回しのせいで分かりにくくはなってるけど。日本国としての国体は保ってるでしょ。フランスは戦勝国って自分で言ってるよね?あれはどうなん?

190.※188 1800年くらいまではこの方法でやってる。泳いで行ける範囲なら無敵です。

191.※189いまのフランスは後に第4共和制を成立させることになる、自由フランスからの流れやから別に矛盾はしないぞ。感覚的には元のフランスが降伏したあとに、亡命した人たちが新しいフランスを作ってそれで領土を取り返した感じ

192.※191それだと、国家元首も国会議員がそのまま残ってる日本は何も変わってないことになるな。負けたけど日本は残ったってのが妥当なんじゃね?

193.※167船酔いで正解だよ。元は遊牧民族。馬に乗って自由自在、情報の速さと圧倒的な残忍さで世界史に躍り出た。馬から降りて戦ったことも、海に出たこともない。元寇はの兵士の大量処分と、支那人に恐怖を植え付けること。ボロ船で日本海を超え、上陸さえ難しかった。そこに台風が来ただけのこと。連日ボロ船の上で、駆り出された宗の兵士は大変だっただろうね。見事海の藻屑となり、元の恐ろしさを支那民族は肝に銘じた。フビライに反乱なんぞ、夢にも思わなかっただろう。

195※193元寇で旧南宋軍が大ダメージ食らったせいでモンゴル帝国の権威に傷がついて盗賊やら反乱やら発生しまくってるんですがそれはそもそも棄民だけのため帝国史上トップクラスの10万以上の遠征なんかやるわけない軍隊を動かすには大量の金や手間がかかるってこと忘れてない?

196.※192ワイは別に日本が消滅したとは言ってないで。別の奴の意見と勘違いしてないか?

あくまで太平洋戦争に関しては南方の資源地帯を確保するという目的は達成できず、戦争としては間違いなく負けたって主張してるだけ

197.※195 だから ※4 にも書いたけど、反乱分子の処分と、民衆に翻意を起こさせないための見せしめ。元の常套手段だ。ヨーロッパ方面でも同じことをしている。あまりにクレイジーだったので、皆聞きつけただけで城を逃げ出した。おかげであの領土の拡張速度だ。その証拠に、モンゴルの兵はほとんどいなかった。

198.鎌倉時代は初期から戦国後期のドロドロが生ぬるく思えるぐらい族滅とか権勢争いのために襲撃して皆殺しとかやってた時代だからあまり語られないけど平家物語の教科書で習うような活躍した人達も死にまくってる政局争い程度のためとかあいつの顔むかつくんで合戦しちゃいまーすって時代だった

199.騎馬軍団って言っても広大な平原があればこそ使える戦術で、山と湿地ばっかりじゃ刀で斬り合いした方が早い

200.※196あ、すまん。南方資源の確保はしたんだけどね、輸送路を維持できなかった。正直、樺太全島をもらってれば戦争せずにすんだのにとは思う。生存権確保って意味では生き残ってるので結果オーライなのか?



元寇 日本人の対応 モンゴル 2017/05/03()

<以下、日本人からの反応>

✦フビライかわいそう

2:戦闘民族だからな

3: 野蛮民族より野蛮だったという事実。

10:>>3ウッキウキで着いた国に自分達より頭おかしい奴等がいると事実

5: 元寇で当時の戦力の何割を使ったんやろ

13: >>5海バリアあるから元の本隊は全然来てないやろほぼ宋と高麗とかやろ

11: 当時で合計20万人を超える戦いってとんでもないで13世紀最大の戦い

12: 相手の船に馬の死骸投げ入れるキチ○イ

14: ワイ全く知識ないんやけどあんな広大な領地維持しながらおまけに海を渡ってよく分からん国に派兵するとかアホと違うか?

17:>>14とにかく攻撃の精神やろ逆にあそこまでデカくなって調子乗らないやつの方かおかしい

27: >>14そら南宋には誼通じててそれを滅ぼした元は無視やからなんとかせんと面子に関わる元も最初から日本が仲良くしてくれたら攻めて来んかったで

20: 西はポーランドまで行ったんやろ?チンギスハン死ななかったらどこまで行ったんやろ

22: >>20言うても森多いとこきついし無理ちゃう?

23: >>20チンギスはその頃とっくに死んどるぞ。オゴタイが死んだから帰ったんや

25: >>23せやったか

35: >>20東欧はほとんど人住んでなかったから・・・

28: ほんまこういう巨大帝国って一代で完成して一代で潰れるやんな

34: >>28チトー「つまり、一代で完成して一代で潰れたワイのユーゴは巨大帝国やった……?」

39: >>34個人に頼りすぎぃ

40: >>34あなたは自分が有能すぎたせいもあります

29: しかも頑張ったのが九州の人らで、日本側も本隊はまだ来ていないとかあの辺りの九州の人らが団結するってもう軽いスーパーバーバリアン大戦やろなぁ

31: 実際陸続きで元の本隊とやりあってたらボロ負けやろ

38: >>31そら当時の騎馬部隊なんて戦車が大軍で押し寄せて来るようなもんやしなぁ…ゲリラ戦しかなさそう

41: >>38大陸やと身を潜める場所がなさそう

42: 元「民間人たてにしたろ!」民間人「助けてクレメンス」武士「関係ない、いけ」こうってきいたんやけど

45: >>42それもあったとか資料で見たな

51: >>42武士「敵が攻めてくる前に略奪したろ!」

55: >>51うーんこの盗賊集団

46: 元軍「敵の首飾っといたろ。恐ろしくて戦意喪失やろなあ」武士「首が奪われたぞおお取り返せえええ」元軍「ファッ!?」

47: 当時に船で朝鮮から日本まで来て戦争するなんて無理やったんや秀吉も

50: >>47秀吉は1ヶ月弱でソウルまで攻めてるんやで

60: >>50そら朝鮮軍は全部逃げたからな当時の日本軍はたぶん世界最強だったそれでも最終的には負けたんやで

63: >>60そりゃ中国人のマンパワーの前にはねえ

48: そもそも民間人たって他人やし武士「俺は嫌な思いをしてないから」

49: あの時代人権なんてなかったし農民なんてボロ切れみたいな扱いやったんとちゃうの

59: >>49当時は農民=武士やで

62: >>59ま?あっそうかやから後で兵農分離したんか

53: 元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)

1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた 2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた 5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が) 6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた 7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた 8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた

66: >>53武士道ってなんなんですかね

69: >>66武士道って言葉ができたのは明治時代定期

71: >>69新渡戸稲造「ワイがつくりました」

56: 武装で褒めるとこ日本刀くらいしかないのに、割と外国相手に善戦して

67: >>56鍛え抜かれた肉体があるんやで

72: >>56日本刀なんて戦争では使ってなかった定期かわりに和弓という射程と威力で世界最強の弓がね。

61: 教師「当時のモンゴルは子供のころから馬と戯れる騎馬民族が主流やった日本はそれにたじたじ!」ワイ「ほーん、じゃあ当時の武士はどんな生活してたんやろ」ワイ「犬追物? 流鏑馬? 騎馬民族やんけ!」

78: >>61支配層だけ騎馬では騎馬民族と呼べない…呼べなくない?モンゴルは全員当たり前のように騎馬やろ

82: >>78せやな馬は金がかかるんやモンゴルはそれを一人何匹も持ってた

89: >>78フィンランドの冬戦争でも徴兵された兵士の多くが狩猟で日常的に銃を扱ってた人たちばっかりやったからな日常で兵器になり得るものを使ってる人らは強い

92: >>89スコープなしで狙撃する化け物生まれてそう

96: >>92?「スコープは光を反射するから使わないのは確定的に明らか」

100: >>92銃の扱いもそうやけど冬の山で鹿追ってたから冬山に対する知識を持ってたのも大きいと言われてる

99: モンゴル帝国ってグループ企業の一番デカイ子会社が元なんか?

110: >>99モンゴル帝国解散で暖簾分けしてもらった大企業が株式会社元って感じ?

112: 確か秀吉が朝鮮に攻め入った時に連れてきた陶工のおかげで九州は陶磁器作れるようになった

118:>>112連れて来られた陶工たちは本国よりもいい暮らしができたので「帰りたくない」と言って帰国拒否したのは有名な話。

121: >>118職人を大事にしないからなぁ

123: >>118やっぱいい人材は優遇した方がええ

114: ベトナムの対モンゴルの戦いが思いのほか智将でかっこいいなんでフランスに負けてん…

116: >>114兵器の質

122:>>114負けてはない内紛にフランス介入フランスが味方になったほうが勝利阮朝はそのままフランスの影響下に

124: >>122内乱に介入して傀儡政権化は近代の植民地作りの常套手段

160: 農民がバイト感覚で戦に出陣する国やぞそらもうあれよ

162: >>160農業と戦の二刀流が定番だった時代

196:>>180真田幸隆の城攻めは見てみたいけど秀吉の城攻めは見てるだけで体調崩しそう

211: そういえばモンゴル帝国の都ってなんで跡形もないの?

213: >>211遊牧民やから一箇所に留まらないんとちゃうの。

214: >>211今の北京が一応元の首都やなかったっけ?そん時の名前は大都やけど

216:>>211陵墓らしきものが近年発見されたとかしないとか

19:>>211カラコルムの遺跡は残っとるし元の大都なら北京の中に城壁残ってて今公園になってる

215: なんやかんや漢民族に同化しちゃう運命



2017/12/28 モンゴル人は元寇で朝鮮半島全土を侵略している当時の朝鮮半島には、そこら中に人骨が転がっていたと鎌倉幕府は報告を受けているどう考えても、高麗人はモンゴル人によって民族浄化されてる

✦最初の侵略では不意を突かれたわけだから援軍が届くまでは100kmやそこら内陸深くまで攻め込まれてる援軍が来てから押し返し海まで撤退させられてるそこで膠着状態が続いた末に嵐が到来した2度目は準備してるから上陸さえ出来なかった

✦元寇の時に攻めて来た兵の8割は朝鮮人。因に、元(モンゴル)に日本攻め提案したのも高麗側。朝鮮人はろくでもない。

✦元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)  1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた  2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた  3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた  4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた  5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)  6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた  7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた  8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた。 9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにした

✦一度目は奇襲で対馬を蹂躙して福岡まで攻め入ったが、そこで戦力を整えた日本軍に押し返されて海で待機してる間に台風にやられた。二度目は日本側が準備してたから上陸もできないまま沈んだってだけ。

✦神風はなかったじゃなくて一度目の撤退は神風じゃなかったって主張だと思いますが? 元側も日本の事甘く見てた訳でまさか兵隊が全員職業軍人(武士全盛期)で全兵士が元側の弓(ショートボウ)の浴びせ撃ちでは有効にならない位重装歩兵化(借金してでも戦の具足を用意するのは当然)とかいうチート級の軍事国家なんて夢にも思ってなかったでしょうに長期的に戦闘するには準備不足とかで撤退するしかなかったらしい二度目は沖まで追い返して神風で全滅で正しいはず

✦なんで鎌倉時代中期に「打刀」の定寸やねん・・・。膨大な数にまかせて上陸→拠点構築→その晩から拠点を襲いまくる武士集団寝ることも許されず疲弊しきって船に敗走→元軍の軍監が怖いからまた挑戦→何とかまた拠点を→またもや昼夜を問わず襲い掛かる武士集団→敗走 この繰り返しそれ繰り返してるうちに台風シーズンに突入して、逃げようとするも間に合わず魚の餌になった



【科学】元寇の神風、本当に吹いた? 米研究者、伝説が事実である証拠を見つけたと主張 2014/11/07() 1200年代、モンゴル帝国の皇帝フビライが日本に攻め込んだとき、嵐が船団を壊滅に追い込んだと 伝えられている。湖の堆積物を調べた結果、この伝説が事実である可能性が出てきた。 皇帝フビライが治めるモンゴル帝国の船団に攻め込まれた日本は、2度も神風に救われたという言い伝えがある。マサチューセッツ大学アマースト校の生態学者ジョン・ウッドラフ(Jon Woodruff)氏は、 13世紀に日本を守った台風並みの強風、“神風”の伝説の一部が事実である証拠を見つけたと主張している。ウッドラフ氏は神風の証拠を突き止めるため、沈没した大船団の一部と考えられている残骸が発見された場所からほど近い湖の底を調べた。 「大気や海の状態が地政学的に重大な影響を及ぼした最古の事例の1つだ」とウッドラフ氏は述べている。

◆神風の伝説  13世紀、モンゴル帝国の初代皇帝チンギスの孫フビライは既に中国の大部分を征服し、 帝国の拡大を企てていた。そして、九州に攻め込むため、中国と朝鮮の軍勢を従えて巨大な船団を組んだ。ウッドラフ氏によれば、14万人以上で構成される史上最大級の船団だったという。1274年と1281年の2度にわたって対馬海峡を渡ったが、圧倒的な力を誇る船団は2度とも壊滅した。 言い伝えによれば、天皇が神風と呼ばれる巨大な嵐を呼び、フビライの船団はそのほとんどが沈没したという。2度の嵐が神の定めだったかどうかはさておき、この伝説には1つの問題点がある。船団に攻め込まれた九州は現在、強力な台風が比較的少ないという事実だ。歴史学者たちはむしろ国を守った日本軍を称賛している。ウッドラフ氏のチームは沿岸部の湖の底から、500年前の九州は現在より台風が多かったことを示唆する堆積物を発見した。しかも、そのうち2つの堆積層は神風の伝説の基となった台風によってつくられた可能性がある。「13世紀後半に2度の大洪水が起きたことを示すかなり強力な証拠だ」とウッドラフ氏は自信を見せる。ウッドラフ氏は1021日、アメリカ地質学会の会合で研究成果を発表した。



2014/11/07()◆神風を求めて  湖の底に沈んだ堆積物は過去の天候の記録として利用できる。嵐によって洗い流された物質を含むことが多いためだ。伊万里湾に近い湖の底から掘り出した古い堆積層の一部は、砕屑岩でできた岩石と金属のストロンチウムを大量に含んでいた。これらの起源として最も可能性が高いのは、台風によって海岸から流れ込んだ砂と粉々の貝殻だ。九州の西部にある別の湖では、砕屑岩と金属のチタンを大量に含む堆積層が見つかった。チタンはおそらく近くの川の底から流れてきたもので、やはり台風の力と推測される。しかも、ただの台風ではない。2つの最大の台風と関連した堆積層の炭素試料から年代を測定した結果、 日本を救った伝説の嵐が起きた時期とぴったり合致していたのだ。 ただし、炭素年代は確実なものではなく、疑問を挟む余地はある。また、地質学的な記録を歴史文献と照らし合わせる必要もある。1274年の博多湾での戦い(文永の役)は、1人の侍が後世に残すため記録していた。 そこには台風の文字はなく、風向きの変化が日本軍を勝利に導いたと記されているのみだ。 1281年の戦い(弘安の役)に関しては、考古学者のジェームズ・デルガド(James Delgado)氏は 第三者の立場で、大型の台風が関わっていても不思議ではないと考えている。1980年代に伊万里湾で 沈没船の残骸が発見され、自らの目でフビライの船団であることを確認したためだ。デルガド氏によれば、日本の研究チームが沈没船を調査したところ、大陸製の額や元の兵士の遺体など、 フビライの船団に所属していたことを“強力に証明”する遺物が出てきたという。ただし、米国海洋大気庁(NOAA)の国立海洋保護区局に所属するデルガド氏は、「歴史は単純ではない」 と強調する。「嵐が起きたことばかりを重視すれば、人的な要素が抜け落ちてしまう」。 伊万里湾では焼けた木材も見つかっている。台風だけでなく兵士もモンゴル帝国の撃退に貢献したことを示す1つの手掛かりだ。



2012/12/06() 木材を扱う時に常識の乾燥をさせず生木をそのまま使ったために建造後変形したのが沈んだ原因のひとつだそうです。

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