そんな記事を読むたびになにか筆者は奇妙な感じを受ける。
そうだなぁ。
その昔、男女雇用機会均等法なんてなかったっけ。
なにか、女性が肩をいからしたような時代が、20年前くらいになかったか。
まぁ、今では能力のある女性は、当然に第一線で働いているのだろう。
ただ、能力が一線で働く程ではないというか、能力が並の女性も多いはず。
そういう女性達の考え方が、肩の力が抜けた、まぁ、より自然体に近づいた感じがするのは筆者だけだろうか。
具体的にいえば、昭和30年代はこんな感じだったなぁ、とか思う。
日本の女性、男性の嗜好が、昭和30年代頃に回帰したのではあるまいか。
そして、それは約20年前のバブル期というものを潜り抜けたことで、経験したことでやっとこさ手に入れた「古風な日本人」というものではあるまいか。
以下、新聞から抜粋。
自分磨きにがんばってきたのに、先に結婚できたのはみんな私よりサエない子ばかり。がんばり方って 間違っていた--そう嘆く独女はいないだろうか
女が自分磨きをするのは、魅力的な女になり、素敵な男性と結婚したい意志があるのだけど、素敵な男性が結婚相手に求めているのは、ワインが分かる女より、分からないわ教えてって言える女」 「凝ったフランス料理が作れるより、家計に助かる献立が作れる女」 「英語がペラペラ話せる女より、ニコニコしながら自分の話を聞いてくれる女」
妻にするなら、料理のうまい地味なタイプの女性がいいですね
結婚相手には華やかさより堅実さを求められているようだが、男性は基本的に自分を立ててほしいのだと思う。
相手の話に耳を傾け、身勝手な自己主張はせず、慎ましやかで、一歩引いていても、いざという時には男性を助けること。
本当に賢い女性とは、自分磨きをした能力を人前では見せず、男性にうまくリードさせるように仕向けることができる人なのだろう。
▲補足、感想など
記事を読みながら、いつの時代の話だろうと感じた。
特に。
-- 相手の話に耳を傾け、身勝手な自己主張はせず、慎ましやかで、一歩引いていても、いざという時には男性を助けること。
本当に賢い女性とは、自分磨きをした能力を人前では見せず、男性にうまくリードさせるように仕向けることができる人--って。
うーん、と思う。
筆者は、表題のとおり、団塊の世代だ。
団塊の世代は、昭和40年代の半ばに世の中にでた。
日本は昭和30年代半ばから、年率10パーセントを越える経済成長率で伸びている最中のタイミングであった。
その頃、別に女性が虐げらていた訳ではあるまいが、その頃から約20年、バブル崩壊のタイミングまで言わば女権拡張運動のようなものがあったのだろう。
なんせ、団塊の世代は人数が多くて多くて、競争の厳しい年代ではあった。
その結果の一つが、雇用機会均等--というようなことであったろう。
なにか、あの頃は女性の服であっても、パットをいれた肩をいからせたような流行がなかったか。
バブルが崩壊して、約20年が経過した。
それだけの時間を経てみると、男性が女性に求める姿というものが、--身勝手な自己主張はせず、慎ましやかで--となるのか。
いや、いや、昭和30年代に戻ったという表現は違うのだろう。
そうではなくて、もっと、個々の能力に応じて、自然体で生きるようになった・・ということなのだろうなぁ。
能力のある人は、当然、第一線でバリバリ働くだろう。
能力が並の人は、それなりに自分の個性を活かして生きることを選択しているということか。
団塊の世代は、言わば、もっとマスとして「突っ張っていた」、個々の能力を無視して。
なにか、そこらあたりに時間の経過を感じると同時に、人数が少ないということは競争相手も少ないヌルイ世代だなぁ、と感じる。
いや、話がどんでもないところへ。
話を戻すと。
男性が結婚相手として女性に求める「姿」というものは昔から余り変化はない。
ただ、上でも書いたが、団塊の世代を中心として、その下の世代の女性達は、--身勝手な自己主張はせず、慎ましやかで--などという資質を求められることが嫌で堪らなかったのだろうなぁ。
例えとしてはどうかと思うが、筆者とほぼ同世代の赤軍派の重信房子のような女性をイメージしてみると、上で書いた--身勝手な自己主張はせず、慎ましやかで--という表現といかにもそぐわないことが理解できるであろう。
結局、バブル崩壊を転機として、そういうマスとして「突っ張って」いても得るものは少ないとして、大きな意味で元々の日本の女性像のような所へ、自然と戻っていったということではあるまいか。