2012年6月30日土曜日

反原発デモは愚者の行進。


Iという評論家の発言が表題だ。
 ちょっと言葉はあれだが、まぁ、筆者も同様の感想だ。
 愚者という言葉は、キツイかもしれないが、軽率でいまある現象を自分の頭で考えられない他者からの扇動にカンタンにのせられやすい人だと思う。
 このことの核心はなにか。
 それはこのブログで、何回も繰り返しているように、「反原発」「脱原発」というなら、原発に代替するエネルギー源を示してみよということだ。
 その一番の核心部分を示すこともできず、ただただ「反対」の「脱原発」などと主張し、あまつさえ、官邸前でデモを繰り広げるという愚かしさ、軽率さは糾弾されてしかるべきと筆者は思う。
 まず、現実を直視せよ。
 現在のエネルギーというものがどこから供給されているかそれをまず、よく見よ。
 原発をこれからどうするかという方針は、その現実直視の上で出発し、決められるべきだ。
 以下、新聞から抜粋。

 昨夜は官邸前で反原発デモが盛り上がったらしい。
 こういう大衆運動は日本では終わったと思っていたが、ソーシャルメディアが大衆運動を活性化したのかもしれない。
 彼らの「大飯原発の再稼働阻止」という目的はナンセンスだ。
 すでに運転許可が出て再稼働の作業は始まっている、これを止めるには技術改善命令が必要で、デモは役に立たない。
 他の原発を動かすなという示威だとすれば、それは5兆円に達している原発停止による損失をさらに拡大する。
 つまりこれは日本を貧しくしろというデモだ。
 原発の健康リスクは火力より小さく、運転を止めることで安全にもならない。
 原発を止め続けると、数年で東電以外の電力会社も債務超過になる。
 避けるためには、コストを利用者に転嫁するしかない。
 彼らは本質的な問題を取り違えているのだ。
 日本がいま直面している危機は、明日は今日より貧しくなるということである。
 労働人口は毎年1%ずつ減り、政府債務は50兆円ずつ増えてゆく。
 きょう生まれる赤ん坊の生涯の可処分所得は、退職する老人より1億円以上も少なくなる。
 夏の停電にそなえて、製造業は海外シフトを急いでいる。
 メーカーに勤務するビジネスマンと話すと「いつまで日本にいられるか」が話題になる。
 そんな時代に「エネルギー供給を止めろ」と訴えるデモは、日本の最後の愚かなエピソードとして記憶されるだろう。

▲補足、感想など
 このiなる評論家のいいがすべて正論かというわけでもないようだ。
 しかし、この原発の再稼働を阻止しようという動きを批判している部分は正しかろう。
 確かに、福島の原発事故による被害は甚大で、この先どうなるかさえ不透明だ。
 でもと思う。
 だからこそ、これから原子力というものをどう扱うかという問題を考える上でも、日常の生活を維持しなければならない。
 電車を動かし、工場を動かし、家庭では食事の準備をしなくてはならないのだ。
 そういう通常の生活を維持するためのエネルギーの確保には、どうしても原発の再稼働が必要だ。
 そのことが理解できないというなら、まさしく「愚者」であり、「軽率」であろう。
 こういう愚かしい主張を拡大させてはなるまい。
 もう一度、大事なことを繰り返そう。
 反原発、脱原発を主張するならば、原発に代替するエネルギー源を示せ。それもできず、単に「反原発・脱原発」を主張する人間など、「愚者」そのものだ。


2012年6月29日金曜日

中国人は、愛国心というものをもっていない。


▲中国って奇妙な国だな、と思う。
 中国政府の例えば、日本の尖閣諸島絡みとかベトナムなどへの攻撃的な対応とか、報道官の他国への高圧的な言い方をみると、なにか、その裏側に自国へのなんらかの思いがあるように見える。
 ところが、一般の国民は国への思いが奇妙なほど希薄なのではないかと思える。
 このギャプは一体なんなのだろう。
 中国人という民族は、まるで「砂」のような人達ではないか。
 国家というものに「魅力」がないのだろう。
 だから、国の指導者とか、日本にいる中国人の教授などが、無理して「求心力」のようなものをでっち上げているようだ。
 ところで、中国内陸部の砂漠化が激しい。
 あれだけ国土というものを痛めつければ、もう、人間が住めない地域が増えていそうだ。
 愛国心をもたない、まるで砂のような民族は、住めなくなれば、環境のいいところへ逃げ出せばいいとしか考えていない。
 日本は中国人のこれ以上の増加・帰化などを制限すべきだ。
 中国系の帰化人となっても、日本の環境が悪くならば、更に逃げ出せがいいとしか考えてはいまい。
 まず、2つの記事を抜粋する。

 21世紀の中国は、世界中がその一挙手一投足に注目する超大国だ。
 本来であれば、中国人は世界のどこに行っても大事にされるはずなのだが、各国でその真逆の反応が起きている。
 アフリカでは中国人の1人や2人、殺しても平気だと思われているらしい。
 特に欧米人の差別意識はひどい。中国人はなぜ、ここまでばかにされなければならないのか?
 フランス在住の中国人によると、まず「すみません、日本人ですか?」と丁寧な態度で聞かれる。
 「違う」と答えると、「では、韓国人ですか?」と続く。
 だが、それでも「違う」と返すと、 「じゃあ、中国人だ」と途端に失望した様子で言い放たれるそうだ。
 これは作り話でも何でもない。我々は明らかに日本人や韓国人より「下」に見られている。
 外国人は中国人を見下している。これは争う余地のない事実である。
 主な理由を3つ挙げると
1)どこでも声が大きい
2)列に並ばない
3)不潔、
 になるだろうか。
 欧州のある国では、どこのトイレに入っても「並んでください」「流してください」「手を洗って下さい」と呼び掛ける中国語の注意書きがあった。
 外国人が抱く中国人のイメージは非常に悪い。
 海外では「中国人お断り」のホテルまである。
 欧州に行くと、たいていのホテルは中国人の団体客だけ別の会議室のような場所で食事をさせる。
 世界各国の観光客に対する好感度ランキングでも、日本人はトップだが、中国人は後ろから2番目だ。
 そう考えると、海外に出かける中国本土の人間は、できるだけ国籍を隠し通した方が得策だ。
 韓国人とでも言っておけばよいし、台湾人や香港人でも構わない。
 欧米では日本人のふりをしてもバレないだろう。

     次に、日本にいる中国人教授の記事を抜粋したい。

 2012410日、毎年行っている 「日中共同世論調査」で、日本人の対中好感度が昨年、急激に下がった原因について、中国の大学教授が GDPの日中逆転という現実を受け止めきれていないため」との見解を示している。
 昨年8月に発表された世論調査の結果によると、中国に対する好感度について、 日本の一般市民208%と有識者406%が「どちらかといえば良い」と回答、それぞれ前年より65ポイント、 108ポイント下げた。
 こうした日本人の中国に対する好感度の急落について、劉傑早稲田大学教授は 「歴史認識、領土問題、経済・貿易、食の安全などいくつもの要因が絡み合っている」としながらも、 「国内総生産(GDP)で中国に追い抜かれたことが、日本社会に大きな衝撃を与えた。
 30年ほど前に対中経済援助を始めた当時は考えられなかったことだろう」と指摘する。
 だが、こうした現実を「日本政府はとても冷静に受け止めている。
 だからこそ、中国に対して、 世界第2位になった以上はそれなりの責任と義務を果たすよう、あれこれ注文を付けてくるのだろう」 としたが、民間はまだその域に達していないとの見方を示した。
 その例として、「3月中旬に日本メディアが世界銀行の重要ポストに中国人が就いたことについて、 『また中国人か』といった論調で取り上げた。
 一部の日本人が中国の発展に対し、嫉妬心を覚えているのは確かだ」とした。
 その上で、「日本メディアや国民がこの現実を受け止め、気持ちの整理をつけるまでにはあと1020年はかかるだろう。
 その間、中国は慎重で謙虚な姿勢で周辺国との関係を処理していかなければならない」と指摘している。

▲補足、感想など
 上の記事を読んでどう思われたであろうか。
 ある現象がある。その現象にどう対応するとかどう解釈するかというところで、中国人って外れているというか、斜め上にいっていないか。
 その部分に中国人の国への思いとか、日本人と比較しての劣等感・優越感とかが複雑にないまぜになっているような気がしないか。
 上段の記事では、中国人は嫌われている →じゃ、日本人のふりをすればいいというのだ。
 えっ、と思う。
 中国人は自らが嫌われる理由を知っているのだ。ならば、それを是正するというのが本来の対応方法であろう。
 日本人が同様の理由で評判が悪いというならば、日本人であるのならば、まず、自分から、次には自分の子供の躾から直そうと努力するだろう。
 嫌われている → じゃ、日系アメリカ人のふりをしようかなんぞ、頭にすら浮かびもしない。
 さて、核心はどこにあるのかな。
 中国人にとって「個人の損得勘定」しかないということだろう。集団とか国への帰属意識というものがないのだ。だから、簡単に嫌われている→じゃ、日本人のふりをとなるのだ。
 後段は、中国への日本人の好感度が減少した。これはgnp で中国が日本を追い越したため、日本人が嫉妬しているためだというのだ。
 ふん、嫉妬だとさ。
 この劉傑という大学教授はアホじゃないのか。本当に日本の大学で教授をしているのか。(どうも中国の対日工作員ぽいなぁ)
 意図的に解釈しているのかもしれないな。中国人からすれば、日本人から「嫉妬」されるというのが嬉しいのだろう。
 日本人からすれば、対外国への好悪について、「嫉妬」といういかにもプライベートな感覚で解釈するという「やりかた」が理解できない。
 このあたりだな。
 2つの記事で共通しているのは、いずれも「個人的な対応」「個人的な意識」ということなのだ。
 そこに集団(国)への帰属意識というものが極めて薄い事が分かる。
 ここで冒頭の感想に逆戻りする。
 なるほど、中国人という民族は、個人個人がバラバラになって存在するまるで砂のような人達なのだな。
 国とかなにか大きなグループに求心力がないためであろう。
 19世紀、アヘン戦争の頃に、「勤王の志士」も「新選組」も中国には出現しなかった理由がよく分かるではないか。
 こういう民族に「愛国心」などある訳があるまい。つまり、国というものが「求心力」をもっていないのだ。
 冒頭で中国内陸部の砂漠化にふれた。また、中国臨海部の海の汚染もひどいものだ。
 国に・国土に対して国民一人一人が愛情をもっていないためであろう。
 さらに輪をかけて、1960-70年代での文化大革命で、数千万人の文化人・職人達を殺害し、1980年台以降の一人っ子政策で我侭放題の小皇帝を大量生産することで、ここまでモラルの低下した国民を多く生み出したのだ。
 そういう中国を日本人が「嫉妬」していると思うか。
 中国人は、みずからの「愛国心のなさ」「モラルの低さ」で国土を砂漠化し、その荒廃した国土の中で徐々に衰退していくものと思える。


キラキラネームは、つける親の常識を問われている。


▲通常ではとても読めないような名前の子供がいる。
こういう名前を、キラキラネームとかいうのだそうな。
ちょっと、例示があった。ご紹介したい。
--ここから
キラキラネームの例として 以下のような者がある。
・騎士(ないと) ・美俺(びおれ) ・月『ライト』 ・琉希亜『ルキア』 ・煌羅『キラ』 ・月雫『ルナ』
・輝南『ティナ』 ・南椎(なんしー) ・ 愛舞(いぶ) ・留樹(るーじゅ)
--ここまで--
某歌手の発言から、議論になっていたのだが、これに通常人からのコメント(下の記事内)があった。
筆者は、この会社人のいいに与(くみ)する。
これは名前をつけられた子供の問題ではない。
こういう非常識な名前をつける親の「非常識さ」が浮き彫りとなったものだ。
こんな名前をつけるぐらいだから、親も相当におかしいのだろうと社会一般から受けとめられて当然ではないか。
就職するという段階で、会社の人事あたりから敬遠されるということが多かろうが、まぁ当然の反応だろう。
以下、新聞から抜粋。

当て字や変わった読み方で、マンガのキャラクターのような個性的な名前の子供が 増えている。
そうした名前は「キラキラネーム」と呼ばれるようになった。
が、親が特別な期待を込めて付けた名前が、将来、裏目に出てしまうかもしれない。
人事担当者は明かす。
3年ほど前、子会社のキラキラネーム系の男性新入社員が入社半年ほどで出社しなくなった。
間もなくその親が会社に乗り込んできて、『上司のいじめのせいで 子供が出社拒否になった』とまくし立て、会社に補償まで求めたのです。
だが、人事が 調べても上司に落ち度はなく、男性社員の被害妄想だっただけでした。
その一件以来、人事ではエントリーシートや面接の際に、キラキラネームの人にはどうしても厳しくなってしまう。
試験結果が同程度なら、やはり一般的な名前を優先して 採用する。
前例があるのに人事は何を考えてんだ、と責められる可能性があるからです」
キラキラネームの学生は就職活動で不利だというのだ。
一部の極端な例だけで 決めつけることには問題があるが、このように採用試験の際にキラキラネームを 気にするようになった企業は少なくない。
ある大手メーカー役員は、「いいにくいことだが」と 前置きし、「そういう名前を付ける親御さんの“常識”はどうしても本人に影響して しまうからね」と語った。

▲補足、感想など
--「いいにくいことだが」と 前置きし、「そういう名前を付ける親御さんの“常識”はどうしても本人に影響して しまうか。
別にいいにくいことではあるまい。真っ当なことではないか。
カエルの子は、カエルだ。--あれ、これはいい意味で使うのかなぁ。
まぁ、いいだろう。
子供は親の影響を受けて育つからなぁ。悪い意味でもいい意味でもそうだ。
要するに、「つける親の常識が問われている」ということなのだ。
こんな名前をつける親がいて、その元で育った子供だからと、推定されるということだ。
筆者などからすれば、真っ当な判断だと思える。




ジャスト イン タイムで原爆を製造する。


▲周辺国から日本の原爆所有についての議論が活発となった。
筆者は、基本的に原爆所有に賛成の立場だが、ただ、日本には日本ならこその「原爆所有のありかた」というものがあると思う。
それが表題に掲げた「ジャストインタイム」で、必要な時に必要な数、原爆が出来上がってくるというシステムを構築するというやり方だ。
無駄に作って、厳重な保管をすれば、費用もかかるし、スパイとかテロ組織に奪われるというようなリスクを考えなければならない。
それよりも、上で述べたように、必要な時に必要数、原爆が出来上がって配備するという工夫というか、仕組みを構築しておく(まぁ、秘密裡ということになるだろうが)--というやり方を選択したらどうだろうか。
まぁ、うまくいくかは分からない。
しかし、上でふれたように日本には日本なりの独自のやり方があって当然ではないか。
以下、韓国の新聞から抜粋。

 日本が核武装するかどうかは国内外の状況に基づく「政治的決断」の問題であり、核兵器の製造に 技術的な壁はない、というのが専門家たちの見解だ。
原子力工学の博士号を持つ大前研一氏は、かつてインタビューで「核兵器を開発しないのは国民感情のためであり、 日本は決断さえすれば90日以内に核兵器を製造してミサイルに搭載する能力を備えている」と主張。
 現在、日本は核保有国ではない。だが、漢陽大学の教授は 「日本はウラン濃縮のための遠心分離機を保有しており、これを軍事的利用に転用すると決めれば、 濃縮濃度を上げウラン爆弾を作ることができる」と話す。
さらに、日本は年間800トンに達する使用済み 核燃料の再処理能力も備えており、その気になればプルトニウム爆弾も製造可能だと説明した。
 また、日本は「激光XII号レーザー」という核融合実験装置を保有しており、実際の核実験を省き、 コンピューター上でのシミュレーションにより核兵器の開発・検証実験を行うことができる。
 核兵器は、大陸間弾道ミサイルに搭載されるときにその威力を十二分に発揮する。
日本は軌道再突入 実験機「りゅうせい」(OREX)を用い、大陸間弾道ミサイルの開発に必要なデータを蓄積してきたほか、 即時に発射可能な世界最高レベルの固体燃料ロケット「MV」も保有している。
原料から運送手段、 検証手段まで、核武装に必要な全ての能力を備えているというわけだ。
 日本政府は北朝鮮の核実験や中国の台頭など、外部の状況変化を反核世論に逆らう決断を下す 口実にする可能性もある、と専門家たちは警鐘を鳴らす。
 原子力基本法の改正、青森県六ケ所村にあるプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料工場の 工事認可など、日本政府の最近の動向を核武装に向けた動きと断定することはできない。
だが、ソウル大教授は、日本政府のこうした動きは、高速増殖炉計画の維持 といった従来の核政策を固守しながら、有事に備えて万全の準備をしておくという意向を示したものだと 分析。
▲補足、感想など
筆者が言いたいことは、冒頭でふれた。
まぁ、繰り返せば、「原爆の所有」「原潜の所有配備」についても、従来のアメリカ、ロシアのようなやり方に固執することはない。
日本は日本なりの独自の「原爆の所有・配備」のあり方を編み出すべきだと考える。



2012年6月28日木曜日

脱原発と軽々に発言するな。


▲どうも、関電の株主総会でのニュースを読んでいると、アツモノに懲りた人達が、ナマスを盛んに吹きまくっているような感じがする。
軽々に脱原発と発言するな。
ならば、原発に代替するエネルギー源を示してみよ。
こういう人達が3年前に民主党に投票したり、なんだっけ「統一協会」などというカルト集団のいうことを簡単に信じてしまう人達なのだろうなぁ。(周囲からその危険性をどれだけ指摘されてもカンタンに信じてしまう人がいる。もうその人の性向としかいいようがあるまい)
もっと、全体を見て自分の頭で考え、発言せよ。
簡単に脱原発などという言葉を使う人間って、きっと今度は「民主党その2」に騙されるな。
以下、新聞から抜粋。

関西電力の株主総会では、大阪市が出した「脱原発」提案をはじめ株主による二十八提案が全て否決された。
ただ、大阪、京都、 神戸の三市の十三議案には議決権ベースで約14~38%(速報値)が賛成し一定の支持を得た。脱原発提案の賛成は17%だった。
関電によると所要時間は五時間三十二分となり、昨年の四時間五十一分を上回って過去最長を記録した。
出席株主数も三千八百 四十二人と過去最多だった。
関電は大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働に絡んで「安全が確認されたプラントは再稼働させていく必要がある」 (豊松秀己副社長)と強調。
再稼働する原発の対象拡大に意欲を示した。
出席株主からは「東京電力福島第一原発の事故原因が 特定されていないのに安全と強弁している」などと批判が続出。
「再稼働は絶対やってはいけない」と再稼働作業の中止を求める意見 もあった。

▲補足、感想など
どのあたりから。
確かに、福島の原発事故による被害は甚大だ。この先どうなるかも分からない。
しかし、と筆者は思う。
この惨状をみて、なお、人類はこの原子力というものを制御しなければならないのだと思う。
神の領域に近いものかもしれない。
しかし、この原子力というものを制御できなければ、人類の未来は切り開けないものだと信ずる。
事故の再発防止というより、今の原発を遥かに越える安全な原発を建設すべく努力すべきだ。
そして、それができるのはおそらく日本人だけだ。
いや、話がどこかへいった。
原発をこれからどうするかということを考える上でも、現在の通常の生活を営むためにはある絶対量のエネルギーが必要だ。
そのエネルギーを供給できるのは、現在のところ、原発のみなのだ。
そのことを直視しよう。
原発を更に進化させるにしても、原子力以外の他のエネルギー源を実用化させるとしても、そのためにはもう20-30年の時間が必要だ。
その間は、どうしても原発の稼働・エネルギーの確保が必要だ。
もう一度、言いたい。
脱原発というなら、原発に替わってこれから20-30年の間、エネルギーを供給する「エネルギー源」を提示してみよ。
それなくして、軽々にものをじゃべる人間は、3年前民主党にコロリと騙されたような「軽率」「非常識」な人間だろう。
そもそも議論にもなるまい。単なる夢想家とでもいうべきではないか。




2012年6月26日火曜日

インド人監督がインパール作戦を映画化。


▲先の大戦で、インパール作戦というものは日本にとって最も悲惨な作戦であったろう。
しかし、インド側から見れば、インド独立のために多大な死者をだしてまで助けてくれた作戦となるようだ。
ものごとの二面性といえばそうだ。
さて、戦後もう60数年となる。
こうして、日本のやったこと、やろうとしたことを見なおしてもらえるのは嬉しい。
そういえば、アメリカで戦時中、日本人のみが収容所へ収容された訳だが、これも映画となって、随分感銘深い映画となったとか。
以下、新聞から抜粋。

インド人の映画監督が今秋、第2次世界大戦で日本軍が大敗を喫したインパール作戦の激戦地、 インド北東部マニプール州で、おじの日本兵の足跡をたどる女性を主人公にした映画を制作する。
気品にあふれた真の日本兵の姿を伝え、現地の人々の記憶に残るエピソードを紹介したいという。
メガホンをとるのは、モーヘン・ナオレム氏(34)。
「マイ・ジャパニーズ・ニース」(私の日本人のめい)と題された作品では、 インパール作戦で戦った日本兵のめい「アサダ」が戦後、現地を訪れる。
すると、おじが夢の中である村を訪ねるようアサダに呼びかける。
そこでアサダは、日本兵らが残した数々のメモや日記を発見するというストーリーだ。
インド人の手でこうした映画が制作されるのは初めてで、撮影は9~10月ごろに始めるという。
日本軍は1944年のインパール作戦で、連合国側の中国への補給路を断とうとしたが、無謀な計画のために敗れ、多くの戦死者を出した。
現地で取材中のナオレム氏は産経新聞の取材に「マニプール州の人々には日本人とともに戦った記憶がある。日本は今も多彩な援助をしてくれており、日本人に親愛の情を示したいと思っていた」と答えた。
ただ、「日本兵の記憶が徐々に人々から失われている」といい、「まだ知られていない話を集めて映画で伝えたかった」と撮影にかける思いを吐露した。
また、「欧米では日本兵の残虐行為や犯罪に関する話が書き立てられているが、日本兵はもっとも気品があり親切な心を持った人々だった」としている。
ナオレム氏は同州での公開後、日本での上映に向けて協力者を探している。
アジア各地での発表も模索しているという。

▲補足、感想など
この映画、日本で上映するとなると、朝鮮系帰化人に牛耳られた日教組あたりからなにか言ってきそうだな。
まぁ、いい。お好きにどうぞ。
日本とインドとの関係か。
そういえば、光機関の話を読んだことがあるなぁ。ご紹介したい。
- -ここから
光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。
「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ」
いったん射撃は止みましたが、また射撃してきます。
今度は日本人工作員が立ち上げって両手を広げヒンズー語で叫びます。
「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前たちに話しに行くところだ武器は持っていない」
そうすると今度はまたインド工作員が再び日本兵の前に両手を広げて立ちます。
この繰り返しにとうとう相手は根負けし、 英インド軍の一個大隊すべてが寝返ってしまったというものです。
--ここまで
なお、光機関については、ウイキペディアから抜粋してみよう。
--ここから--
機関はやがて500名を超え光機関と改称。
光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動のスバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ-スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の名はインドの言語で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。
支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。
途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。
結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とインド国民軍は連合国軍に降伏した。
- -ここまで
確かに、日本はこうして負けてしまった。しかし、それからのアジアでも独立運動を経て、独立した年月日を確認してみよう。
1945 8月 終戦の詔勅
1945 8月 インドネシアがオランダから独立宣言
1945 9月 ベトナムがフランスから独立を宣言
1946 7月 フィリピンがアメリカから独立
1947 8月 パキスタンがイギリスから独立
1947 8月 インドがイギリスから独立
1948 1月 ビルマがイギリス連邦から独立を宣言
1948 2月 スリランカがイギリスから独立
→日本の敗戦なくして、これだけ早くアジア各国が、西欧列強国からの軛(くびき)から抜け出せたと思うか。


2012年6月25日月曜日

スパコンというものをどうとらえるか。


▲日本のスパコン「京」が、アメリカのibmのスパコンにかなりの差をつけられて追いぬかれてしまった。
 まぁ、スパコンというのは、未来を切り開くための「武器」だ。
 まともな武器もなしに戦えるかといえば、スパコンのもつ意味が理解できそうだ。
 まず、日本の「京」が追いぬかれたという記事を抜粋してみよう。
 以下。

 世界最高性能を誇っていた理化学研究所と富士通のスーパーコンピューター「京(けい)」(神戸市)が、六月時点の最新の世界ランキングで、米国のスパコンに抜かれ二位に転落した。
計算速度を比べる専門 家のプロジェクト「TOP500」が十八日、発表した。
 京は昨年六、十一月に発表された前回までのランキングで二回連続して首位だった。
 最新のランキングでは、京の計算速度は前回と同じ毎秒一京五百十兆回(京は兆の一万倍)。
一位と なった米エネルギー省などの「セコイア」は、同一京六千三百二十四兆回で大きく引き離された。
三、四位 には米国とドイツのスパコンが新たにランク入りし、前回二位の中国の「天河1A」は五位に後退した。
 京は、世界で初めて毎秒一京回を超える計算速度を達成したスパコン。
二〇〇九年の政府の事業 仕分けで、蓮舫参院議員から「二位じゃ駄目なんでしょうか」と問題視され話題になった。
 六月末に完成し、九月末から本格運用を始める予定で、京クラスのスパコンの運用は世界初となる。
 理化学研究所の野依良治理事長は「先行する優位性を生かして、産業界にも活用してもらい、貴重な 成果を創出してほしい」とのコメントを発表した。
 <スパコン「京」> 2006年に政府の主導で開発が始まった次世代スーパーコンピューター。
ことし6月末に 完成、9月末から本格運用を予定する。
約100個の中央演算処理装置(CPU)が入った冷蔵庫大の計算 機864台で構成され、計算速度は毎秒1京回(京は兆の1万倍)を超える。
開発費は約1110億円。

と追いぬかれたので、追い抜こうという計画が以下。

★:2012/06/25()
富士通の株主総会が開かれ、山本正已社長は理化学研究所と共同開発し、世界最速の座に就いたスーパーコンピューター「京」の後継機となる新しいスパコンの開発を開始していることを明らかにした。
京は1120億円かけて開発され、スパコンの性能ランキングで昨年6月と11月に2期連続で首位を記録したが、 今年6月には米IBM製のスパコンに抜かれ、2位に転落。
米中との開発競争が激しくなっている。
山本社長は「富士通は技術の会社だ。

世界一を目指すところに様々な技術が付いてくる」とスパコン開発の意義を説明、 「近日中に世界一を取り戻したい」と意欲を示した。
新型スパコンの完成時期や性能などについては明言を避けた。


▲補足、感想など
 先の大戦前の、戦艦を建造する競争に似ているなぁ。
 理屈は一緒だろう。
 どれだけ優れた武器をもっているかが、世界へ向けて覇権を競う切り札だったのだ。
 上の記事を読んでいると、ドイツが出てきたなぁ。
 日---独 という争いとなっているようだ。
 どうも、nec がもたもたしはじめたな。
 これからはスパコンは、富士通頼みかなぁ。



2012年6月23日土曜日

野球はどこでも同じ---筈。


▲アメリカ、大リーグにいる福留選手が戦力外通告を受けたようだ。
アメリカへいって何年目だろうか。4-5年ぐらいかな。
ウイキペディアをみると、2008年から大リーグのようだ。してみると、5年目に入ったところか。
日本の選手って、なぜ、大リーグへいくのだろう。
野球って、世界のどこにいっても同じさぐらいの感覚かなぁ。
そりゃ、野球のルールは同じかもしれない。
でも、言葉も習慣も、食べ物も違うそういう環境に一遍に適応していくものだろうか。
特に食べ物なんてどうだ。
アメリカへ出張した日本人の文章を読んでいると、即、食事のバリエーションの無さに困るようだ。
朝がコービーとシリアルで、昼はハンバーガーで、夜はステーキでてな具合かな。これが毎日続くのだそ。
日本の選手がアメリカへいって、こんな食事でまともに働けるのかと疑問に感ずる。
以下、新聞から抜粋。

ホワイトソックスは22日、福留孝介外野手(35)を戦力外にしたと発表した。
福留は現在、右脇腹を痛めて故障者リスト(DL)入りしている。
21日は3Aシャーロットで「2番・右翼」で試合に出場し、3打数無安打だった。
3Aでは4試合目の出場に「疲れも出そうだけど、何とか普通にやれている」と話し、22日にマイナーでの調整を終える予定だった。
昨季途中にカブスからインディアンスへ移籍し、今季はホワイトソックスへ。
レギュラー獲得を目指したが、24試合で打率1割7分1厘、4打点で本塁打なしと精彩を欠き、 故障でマイナー落ちしていた。

▲補足、感想など
日本の選手も最初の1-2年くらいはなんとか頑張れるのだなぁ。
しかし、冒頭でふれたように慣れない食事とか習慣とか、試合のハードなスケジュールとか、チームメートとの軋轢とかで、疲労困憊(ひろうこんばい)してしまうのだろう。
確かに野球のルールは同じだ。
しかし、野球をするための基礎となる部分が日本とアメリカでは大きく違う。
大して違わないと甘く考えている人間は、環境に適応できず、早々にコンディションを壊して戦力外ということなのだろう。
そのあたり、イチローとか松井選手なんかは、それなりの対応を考えてアメリカへ乗り込んだということなのだなぁ。
まぁ、野球のルールは同じだが、アメリカと日本では野球というゲームを成り立たせている基礎部分が違いすぎる。
日本人が海外で働くことの難しさを改めて感じる。





2012年6月22日金曜日

朝日新聞の東電批判。


▲朝日新聞が、東電が出した調査報告書を批判している。
まぁ、その攻撃の舌鋒の鋭いこと。
朝鮮系の記者が書いたものだろう。まぁ、いつもながら、彼等は他者を攻撃するのは得意だなぁ。
翻って、自分が攻撃されると、亀のように頭・手足をひっこめて、ただただ黙ってしまう。
花王という会社など、その見本のようなものだ。
裏工作をしつつ、攻撃者が、攻撃するネタを早く忘れてくれますように、攻撃に早く飽きてくれますようにと願っているだけなのだ。
いや、話がとんだところへ。
東電に過失があったことは当然としても、そこに過失割合のようなものが入るだろう。
技術者の目からみて、一番大きな原因として、マグニチュード9.0という規模は、想定外であったということだろうな。1000-1200年に一度という規模の地震はなかなか想定できない。
二番目として、東電の電源を何重にもバックアップしていなかったということだろうなあ。
昨年の福島の原発事故の原因としては、上記2つで、8割程度は占めるのではあるまいか。
以下、新聞から抜粋。

東京電力による福島原発事故の調査報告書が公表された。
結論をまとめるなら、「原因は想定を超えた津波にある。東電の事後対応に問題はなかった。官邸の介入が混乱を広げた」というもの。
予想されていた主張とはいえ、これだけの大事故を起こしながら、自己弁護と責任転嫁に終始する姿勢にはあきれる。
こんな会社に、原発の再稼働など許されない。
報告書は、東電社内でも津波が15メートル以上になるケースを試算していながら、対策を講じなかったことについて、「国が統一した見解を示していなかったため」とする。
事故後の対応で、冷却作業などの遅れが指摘されている点には、与えられた条件下で最善を尽くしたと主張する。
東電が官邸に「全面撤退」を申し入れたとされる問題は、官邸側の勘違いとしている。
発端は、当時の清水正孝社長からの電話である。
電話を受けた一人である 枝野官房長官が会話の内容を証言しているのに対し、清水氏は「記憶にない」 として、報告書ではこの電話には触れていない。
外からの批判に細かく反論する一方、都合の悪いことは避けているとしか思えない。
報告書は、責任を逃れるため東電が情報を都合よく扱っている疑いも残る。
事故後の対応は、東電本社と原発を結ぶテレビ会議システムの情報を公表すればわかる。
しかし、東電は「プライバシー」を理由に公表を拒む。
東電のもつデータをすべて公開させなければ、福島事故が解明できないことは明白だ。
東電が自らの責任にほとんど言及しないのは、今後の賠償、除染、廃炉費用の負担や株主代表訴訟などを考えて、有利な立場に立ちたいからだろう。
しかし、原因を突き止め、発生後の対応の問題点を洗い出して、今後の教訓を 引き出さないのでは、何のための事故調査だろうか。
報告書が示しているのは、事故の真相ではなく、東電という会社の体質である。
事故の詳細や責任の所在などを後世に残すという歴史的使命に向き合うよりも、 会社を守ることを優先させる企業の実相だ。
原発はこういう会社が運転していたという事実を改めて肝に銘じておこう。

▲補足、感想など
記事を読むたびに、朝鮮系の人間は「攻撃」は得意だなぁ、と確認する。
論調が、「従軍慰安婦」なるデッチアゲで日本人を攻撃している「言い方」をそっくりだと思わないか。
 ついでながら、在日韓国人について、書かれた文章があったのでご紹介したい。
 --ここから--
 自分は在日の二世、三世の知り合い、浅い友人もいるけど物事の捉え方、考え方に微妙に違和感を感じる 

 やはり血だと思う 
 特に感じるのは、相手に落ち度、非がある場合攻撃の仕方が半端ない謝っても反省をのべても攻撃をゆるめない 
 謝罪の落としどころとか関係なく、ただ相手を攻撃する 恐いことに知り合い全員がそうなんよ 
 --ここまで--
自分のことは棚にあげて。
まぁ、いい。
朝日新聞など、もはや新聞の発刊では生きていけない会社だ。えっ、不動産業が主たる仕事だったか。
話がとんだところへ。
会社というのは組織である。そこに多くの人間が働いている。
自社の内部で起こった事故を、自社で調査報告するというのは難しい。
できるだけ、第三者の目で、冷静にというつもりでも、自分の完全な裸は見せづらいものだ。
そのあたりは理解して上げるべきだろう。
事故の原因については、冒頭でふれた。
事故直後に、官邸と東電での連絡のことが書いてあるが、これは、菅さんという組織で働いてこともない人間が、電話の一方にいたのだ。
どう聞き違えたか、とう受け取り違えたか見当もつかない。
言わば、水掛け論のようなものだ、そんなところへ深入したところで得るものはあるまい。
この調査報告書は、事故を起こした側の言い分も多分に含まれている。それは致し方ない。
これ以上の調査報告を求めるなら、国で調査委員会を作り、東電の担当者へ個別に証言させるしかあるまい。
それでも、事故後は、モタモタしながらも、大きな事故へ繋がることはなかった。現場の技術者達の懸命の努力のお陰であろう。
そのあたり感謝したい。
最後に、技術者的な視点から事故全体を振り返って言わせてもらえば、事故の原因は、電源の確保のミスという点で東電に最大の過失があり、1000年に一度という規模の地震が不可抗力とすれば、不可抗力な部分4割:東電の電源確保ミス6割というところではあるまいか。


※冒頭でふれたことと矛盾するような表現とはなった。ただ、事故に直接つながるミスとして東電の電源確保という点は、どうしても不可抗力とは言いがたいためだ。まぁ、合理的とはいえなかもしれないが、筆者の頭の中での判断基準ではそうなるということ。





2012年6月20日水曜日

原発の必要性と安全性。


▲今後、原発をどうするかという論点より、この原子力という「力」を、将来に向かってどう使っていこうかという方針が日本政府の中で決まらないようだ。
核心はなんなのかなぁ。
日本全体でみたときのエネルギー政策というものは、やはり、日本全体でみるべきで、それは政府が方針を打ち出すべきだろう。
人類は、もはや、採集・穴居生活には戻れない。
ならば、通常の生活を維持するためには、ある絶対量のエネルギーが必要だ。
そのエネルギーをどういうエネルギー源に求めるかということが核心だ。
日本の場合、それを原発というエネルギー源に求め、45パーセントくらい依存している。
確かに、いろんな代替エネルギー源は、あるし模索してはいるが、現在、原発にとって替わるものは存在していない。
論理的には、ならば現時点では「原発」に依存する以外にないというのが結論だろう。
科学者・技術者ならば、当然の帰結である。
ところが、政治家はそれが言えない。
“世論”というものが、必ずしも「合理的」に判断し、動かないからだ。
そこで曖昧な言葉つかいとなる。やれ、必要性が、やれ、安全性がと。
じゃ、安全性を確保したとは、どういう状況を示すのか?
それすらも曖昧となってしまう。
この文系“脳”をなんとかならないか。もっと、「合理的な説明」に反応するような「合理的頭脳」をもつ人、「合理的生活者」の数が増えないものか。
以下、新聞から抜粋。

政府は関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を決めた際、 原発の「安全性」と、電力が足りず稼働させる「必要性」の二つがそろわないと再稼働は 認めない、と約束した。
しかし、原子力規制委員会が発足した後は「必要性」はチェックせず、なし崩し的に再稼働を進めるかのような動きを見せ始めた。
「安全であったとしても、必要がないなら再稼働の判断に至るものではない」。
四月九日、枝野幸男経済産業相はこう明言した。
大飯原発3、4号機をめぐる首相と 関係三閣僚会合後の記者会見での発言だ。
安全性そっちのけで再稼働を急ぐ姿勢を批判されるのを恐れたためか、熟慮に熟慮を 重ねていると強調したかったとみられる。

▲補足、感想など
新聞記事での用語がそもそも具体的な内容を示しているのではないのだな。
まぁ、枝野さんもまだ、「アツモノにこりてナマスを吹く」状態のままだということなのだ。
冒頭でふれたように、筆者と同じ論調で、「今更、穴居生活ができるものか」とか言えないのだろう。
福島原発事故で、避難生活を余儀なくされている人々の神経を逆撫でするような感じとなるということか。
それでもと筆者は思う。
通常の生活(電車に乗れて、食事の準備ができて等々)を維持するためには、どうしても絶対量のエネルギーが必要だ。そして、現在時点で供給が可能なものは「原発のみ」なのだ。
次のステップへ踏み込むためにはどうしても原発をエネルギー源とする以外にない。
その部分はどれだけ強調しても強調しすぎるということはあるまい。
これこそが「必要性」なのだ。
対して、安全性の確保とは、原発施設への電力供給のバックアップであろう。
なにか、断層がどうとか-いう人がいるが、これはもはや安全性の問題ではない。
仮に断層上に立地されているとすれば、それは最初の立地場所の選定ミスであり、「廃棄」以外にはありえない。
いや、話がそれた。
安全性の確保の問題は、このブログで何度もふれていように、他の電力会社エリアから、バックアップ用に電線を引き込むということであろう。
上の記事を読んでも、「安全性」だの「必要性」だの、意味が曖昧な言葉を選んで駆使しているようだ。
世論の反発を恐れる気持ちは分かる。
しかし、これはある意味、国民をアホ扱いしているようなものであろう。
日本政府側も国民側も、もう少し「合理的」な言葉使い、合理的な判断を求められている。