▲今後、原発をどうするか—という論点より、この原子力という「力」を、将来に向かってどう使っていこうか—という方針が日本政府の中で決まらないようだ。
核心はなんなのかなぁ。
日本全体でみたときのエネルギー政策というものは、やはり、日本全体でみるべきで、それは政府が方針を打ち出すべきだろう。
人類は、もはや、採集・穴居生活には戻れない。
ならば、通常の生活を維持するためには、ある絶対量のエネルギーが必要だ。
そのエネルギーをどういうエネルギー源に求めるか—ということが核心だ。
日本の場合、それを原発というエネルギー源に求め、45パーセントくらい依存している。
確かに、いろんな代替エネルギー源は、あるし模索してはいるが、現在、原発にとって替わるものは存在していない。
論理的には、ならば現時点では「原発」に依存する以外にない—というのが結論だろう。
科学者・技術者ならば、当然の帰結である。
ところが、政治家はそれが言えない。
“世論”というものが、必ずしも「合理的」に判断し、動かないからだ。
そこで曖昧な言葉つかいとなる。やれ、必要性が、やれ、安全性が—と。
じゃ、安全性を確保した—とは、どういう状況を示すのか?
それすらも曖昧となってしまう。
この文系“脳”をなんとかならないか。もっと、「合理的な説明」に反応するような「合理的頭脳」をもつ人、「合理的生活者」の数が増えないものか。
以下、新聞から抜粋。
政府は関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を決めた際、 原発の「安全性」と、電力が足りず稼働させる「必要性」の二つがそろわないと再稼働は 認めない、と約束した。
しかし、原子力規制委員会が発足した後は「必要性」はチェックせず、なし崩し的に再稼働を進めるかのような動きを見せ始めた。
「安全であったとしても、必要がないなら再稼働の判断に至るものではない」。
四月九日、枝野幸男経済産業相はこう明言した。
大飯原発3、4号機をめぐる首相と 関係三閣僚会合後の記者会見での発言だ。
安全性そっちのけで再稼働を急ぐ姿勢を批判されるのを恐れたためか、熟慮に熟慮を 重ねていると強調したかったとみられる。
▲補足、感想など
新聞記事での用語がそもそも具体的な内容を示しているのではないのだな。
まぁ、枝野さんもまだ、「アツモノにこりてナマスを吹く」状態のままだということなのだ。
冒頭でふれたように、筆者と同じ論調で、「今更、穴居生活ができるものか」とか言えないのだろう。
福島原発事故で、避難生活を余儀なくされている人々の神経を逆撫でするような感じとなるということか。
それでも—と筆者は思う。
通常の生活(電車に乗れて、食事の準備ができて—等々)を維持するためには、どうしても絶対量のエネルギーが必要だ。そして、現在時点で供給が可能なものは「原発のみ」なのだ。
次のステップへ踏み込むためにはどうしても原発をエネルギー源とする以外にない。
その部分はどれだけ強調しても強調しすぎるということはあるまい。
これこそが「必要性」なのだ。
対して、安全性の確保とは、原発施設への電力供給のバックアップであろう。
なにか、断層がどうとか-いう人がいるが、これはもはや安全性の問題ではない。
仮に断層上に立地されているとすれば、それは最初の立地場所の選定ミスであり、「廃棄」以外にはありえない。
いや、話がそれた。
安全性の確保の問題は、このブログで何度もふれていように、他の電力会社エリアから、バックアップ用に電線を引き込むということであろう。
上の記事を読んでも、「安全性」だの「必要性」だの、意味が曖昧な言葉を選んで駆使しているようだ。
世論の反発を恐れる気持ちは分かる。
しかし、これはある意味、国民をアホ扱いしているようなものであろう。
日本政府側も国民側も、もう少し「合理的」な言葉使い、合理的な判断を求められている。