▲Akb48という存在は、アメリカ人を含む白人系の人間には分かりづらい存在だろうなぁ、と思う。
いや、筆者がなにもかも分かる—と取られても心外だが--。
ただ、これはアジア系というか東アジアでしか理解できないような—そんな存在だな。
先日、中国のnなんとか98とかいう、akb48によく似たグループの画像をみて、そっくりだなぁと思った。
いや、中国がパクった—とかいうつもりはない。(パクリそのものだが)
パクリであろうがどうでもよくて、これは美少女フィギュアのようなものだな、と感じた。
日本人と同じように中国人も、同じ視点でこういうものを見ることができるのだな—とも思った。
「性」という対象でもないし、かといって歌がどう、演技がどう—ということでもない。
言わば、彼女達は、「動く美少女フィギュア」なのだろうなぁ。
そして、そういうものを見て、日本人も中国人も同じように「楽しめる」ということなのだ。
以前このブログで、彼女達は「多幸感溢れる存在」だと書いた。
平和で、豊かな生活が数十年継続することで始めて生み出すことができる存在だとも書いた。
上の中国のなんとか98の少女達の画像をみて、同じように感じた。
つまり、中国でも同じように「多幸感溢れる美少女達」を生み出せるところまで、社会が成熟しつつあるのだな。
以下、新聞から抜粋。
2012年3月末、アイドルグループのAKB48がワシントンを訪れた。
今年は桜の苗木が日本からワシントンに贈られてから100周年に当たる。
それを 記念して、AKBが「全米桜祭り」でコンサートを開くことになったのだ。
地元でのイベントと あって有力紙のワシントン・ポストが“J-pop royalty”と題した記事を載せた。
“Japanese girl group AKB48 breezes through D.C. in whirlwind
of cuteness”
(「日本の少女グループAKB48、『可愛らしさ』のつむじ風がワシントンを駆け抜ける」
さて、この見出しを読んで、AKB48を「かわいい」と好意的に評価した記事だと思うだろうか?
■「旋風」はなく「あっという間に帰った」
同級生は「cuteは米国では必ずしも良い意味ではない。
小さい女の子にcute といえば褒め言葉だが、女性を褒めるときには使わない」と。
cuteはかなり適当な 印象を与えるようだ。
記者が『外見以外に見るべきところがない』と判断している印象を受ける」と。
さらにbreeze
through という句も、「airhead(頭が空っぽ)でshallow(薄っぺら)な 印象を与える」と指摘。
記者は 「さっと来て、慌ただしく帰って行った」という意味でwhirlwindを使っている。
辛口なトーンはもっと明白だ。
地元の小学校を訪問した3人の メンバーの服装についてはこう描写。
“a navy plaid
blazer over the smallest schoolgirl skirt, followed by yards of gangly legs,
then knee socks”
(濃紺のチェックのブレザーにとびきり短い女学生風スカート、その下にひょろっとした長い足とニーソックスがつながっている)
ネイティブの学生に聞くと「小学生の男の子みたいな、 棒切れのような足のイメージ」という。
AKB48とは一体何者なのかを説明する文章だ。引用してみよう。
“It is as if Miley Cyrus, Taylor Swift and the entire cast of
"Twilight" were placed into a saucepan and simmered on a low boil until
nothing remained but the sweet, cloying essence of fame, and if that fame were
then poured into pleated tartan skirts and given pigtails.”
(まるでマイリー・サイラス、テイラー・スウィフト、それに『トワイライト』の全出演者を鍋に入れ、有名人だという甘ったるさ以外には何も残らなくなるまで 弱火で煮込み、それをタータンチェックのプリーツスカートに注ぎ込んでお下げをくっつけたようなもの)
マイリー・サイラスやテイラー・スイフトなどは、現在米国の中高生に大人気のアーティストだ。
これを読んだネイティブは「要するに、これといった才能は何もない、ただ『有名』なだけの存在ということ」と説明。
記事の最後。
“The resulting applause seemed the slightest bit outsize for
the girls' responses,but they were very personable and lovely, and it is always
possible that something was lost in translation.”
(彼女たちはとても感じがよく、愛らしかったし、翻訳によって「大事な何か」が失われてしまうのはよくあることだ)
「受け答えの割に 拍手が大きすぎる」など、AKBに対する「中身がない」という評価は変わっていない。
学生に記事のトーンを尋ねたところ、4人が“bewildered(当惑)”と答えた。
日本文化について何も知らない記者が、「コ、コレは一体何なんだ?」と困惑しながら書いているという印象だ。
残るは“derogatory(軽蔑的)”“condescending(見下して いる)”と受け取った。
■日本人ほど多様な趣味に寛容でない米国人
この記事を見る限り、日本のポップカルチャーに免疫のない米国人にとって、AKBはやや刺激が強すぎたのかもしれない。
「良くも悪くも、米国人は日本人ほど他人の趣味に寛容ではない」と同級生のリンは語った。
AKBのメンバーの年齢、露出度の高い衣装やコケティッシュなパフォーマンスを見て、「こういうのが好きな人もいるよね」と流せる人が多い日本に対し、米国では“This is wrong!” (これはおかしい!)と憤慨する人が珍しくない。
人種の坩堝の国である割に、米国人は自らと異なる嗜好・見解に不寛容なところがある。
▲補足、感想など
別に、アメリカ人がどう思おうとどうでもいい—と思う。
なにか文化というもののもつローカル性というものにつながりそうだ。
「美少女は国の宝」とかいったのは、宮崎駿ではなかったか。
風の谷のナウシカ—美少女フィギュア---akb48 –というものには、根底で繋がるものがありそうだ。
この動く「美少女フィギュア」、また、多幸感溢れる少女達の存在は、東アジアを中心として、アジア人だけに理解されるそんな存在なのだろう。
これから先、どういう展開となるのか見当もつかないが、中国でも台湾でも同じような存在が次々生まれてきそうだな。