2017年2月28日火曜日

日本には家畜として育て、肉として食べる授業があると中国人

核心は、日本人が食事の前に習慣として行っている「頂きます」の本質的な意味だろう。
 人間というものは、他者の「生命を頂いて」いなければ、生きてはいけないのだ。
 人間が宿命的にもつ「業—ごう」というものだろう。

 しかし。
 こんな「業」という考えなど、仏教等を先覚的に導入した中国人には当たり前のことではないのか。
 こういう思想さえ、1960年代の「文化大革命」で、自らの手で破壊してしまったのか。

 一体、中国人ってなにものなのだ?
 なにもない荒涼たる砂漠のような「精神世界」なのだな。
 あるのは、ただただ、お金への妄執だけか。

 以下、新聞から抜粋。

 日本の一部の学校では、教育の一環として家畜を育て、最終的に肉として食べるという授業がある。
 命の大切さと食べ物への感謝を教えると同時に、われわれは他の命によって生かされているということを子どもたちに教える授業のようだ。
 一見すると価値のある教育だが、子どもたちにとっては残酷なのではないかという意見もある。

 中国メディアの今日頭条は、日本のある小学校が子どもたちに豚をペットとして育てさせ、最後は食べ物として食べる授業を行ったことを紹介し、その是非について中国人たちが議論を交わしている。
 記事は、子どもたちは豚が1日1日成長していく様子を観察していたため、「互いに深い感情が芽生えた」と伝え、最終的に食肉センターに連れられていく豚を見守っていた子どものなかには泣きだす子もいたと紹介。

 また食肉センターで加工された豚の肉を料理の授業を通じてみなで食べたが、記事は感情的に耐えられないという表情をした子どもの写真を掲載し、「本当に残忍な授業である」と批判した。 

 この記事に対して中国ネットユーザーたちからいくつかのコメントが寄せられたが、「真実を知らないことこそ残酷」、「食べ物を粗末にしないことや、食べ物があることに感謝すべきことを教えるのはすばらしいこと」、「農村の人間としては見慣れたもので、可哀そうだとは感じなくなる」という内容のコメントがあった。

 日本にもこの教育方法について疑問視する声もあるようだが、それはこの豚に名前が付けられ、まさにペットとして育てられたという点が問題だったという見方も多い。
 授業の動機は良いが、情が湧く方法で育てたという方法が間違っていたということかも知れない。

補足、感想など

 冒頭でふれた。
 人間というものは、他者の生命を頂いていなければ、生きてはいけない。
 だからこそ、日本人は食事の前に「頂きます」という言葉を習慣にしているのだ。
 人間が宿命的にもつ「業」を、直視するということは決して間違いではない。

 ペットでもそうだ。
 犬など、15年程度しか生きられない。
 老いて死んでいく様を直視することで、生命の輝きへの愛おしさが増すのだ。

 中国人の記事の文章は薄っぺらいな。
 冒頭でふれたように、1960年代の文化大革命でなにもかも、破壊し捨て去り、「業-ごう」というような「思想の深さ」を持ち得ないのだろう。

 のっぺりした単純な思想、荒涼たる荒野のごとき、中国人の精神世界の貧弱さを感じる。

 ※追記
 このブログも今日で13年を終了したところらしい。明日から14年目に入る。
 この1.2月はちょいと体調を崩し、回数が減っている。
 3月からは、従来程度には書けそうだ。