▲表題の文字でいくつかのことに注目して欲しい。
福岡で、弥生時代のすずりが---あたりかな。
このブログで何度もふれた。
ユーラシア大陸の東側部分というものを考えた時、西側にある地域ほど「最先端の情報」が手に入ったということだ。
中国の唐の時代、首都は長安であった。
地図で長安(現在は西安)の位置を見て欲しい。海岸から1000キロ以上も内陸部にあるのだ。
つまり、中国という国は、歴史的にシルクロードを通過して「ローマ帝国等の最新の情報」が手に入ったのだ。
だからこそ、首都が版図の西側に位置する必要があったのだ。
日本列島というものを考えても同じだ。
まず、最先端の情報は九州に上陸するのだ—ということだ。
日本に中国から「文字」というものが伝わったとしても、まず、九州に伝わるということだ。
ここから、敷衍すると、今の天皇家も九州で勃興したことは確かであろう。
まず、日本で最初に鉄製の鏃(やじり)、鉄製の刀、槍を入手し、装備した軍隊を作った部族だということであろう。(鉄製というものが最新兵器だったのだ)
九州を版図とした後に、近畿地方へ遠征し、奈良付近に国を作り、遷都した—という流れであろうな。
ついでに言えば、こう考えると、ヤマタイ国というものは、北九州以外には考えることはできまい。
いや、奈良にあってもいいが、元々、九州で勃興し、近畿地方へ移動したと考えなければおかしい。<九州地区を抜かして、急に近畿地区の最先端の武器をもつ部族が出現するという発想がおかしい>
いや、話がどこかにいった。
文字上陸の話だった。
日本への文字の伝来は、4世紀末頃とされている。
上の弥生時代は、紀元前後を意味しているようだ。
つまり、文字の伝来は、中国の前漢が倒れた頃から、細々と中国から人が来て、なされたことを意味しているのだろう。
以下、新聞から抜粋。
福岡県筑前町の薬師ノ上遺跡で14年前に出土した石製品が、墨が付着した弥生時代のすずりである可能性が高いことがわかった。当時、北部九州の広い範囲で文字文化が普及していたことを示す傍証になる。
石製品は長さ約15センチ、幅6~5センチ、厚さ数ミリ~1センチ足らず。材質は砂質頁岩で二つに割れているが、ほぼ完全な形。
表面には炭化物がうっすらと付着し、当時使用された墨とみられる。
2003年、紀元前から紀元後にかけての弥生時代中~後期の土器だまりで発見された。
田和山遺跡(松江市)や三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)に続く弥生すずりの発見で、墨が残る完全な形での出土は初めて。
日本列島にいつ文字が導入され、どのくらい定着していたかは考古学上で論争がある。
筆記用具であるすずりはそれを解明するための重要な手がかりだ。
これまでは、三雲・井原遺跡が所在する「魏志倭人伝」記載の伊都国領域など海外文化と接触する海岸部での出土だったが、弥生文化に詳しい柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)は
「今回、内陸部でもすずりが確認されたことは、当時かなり広い範囲で文字が使われていたことを物語る」と話す。
詳細は今月下旬に福岡市で開かれる九州考古学会で報告される。
▲補足、感想など
筑前町って、太宰府より南側に位置する。
だから。内陸部という言葉が使われているのだな。
ac0年頃の九州ってどんなことになっていたのだろう。
書込みを転記してみたい。
--ここから--
4墨は何からつくってたんだろう
>>4
と膠が原料だよ。 作るのは簡単だ。
>>3当時の朝鮮半島は紛れもなく中国の直轄地。交流するのも間に変な国がない分容易だ。
8紀元50年ごろの金印が出土してることからして紀元前から交易・交流があったのは容易に想像できる
文字の流入は交流・交易と同時と考えられるので紀元前なのは確定だろ
12弥生時代?って紀元1世紀ぐらい?
魏志倭人伝に朝貢に来た時が三国志の頃だからそのぐらいだっけ?そんときに日本にも文字はあるわなぁ
なきゃ朝貢に来れないしな文書書いて持ってきたんだろうし
文字ぐらいはあったのね
--ここまで--
紀元前後の日本(当時は倭か)の情報は殆どなくて、よく分からない。
ただわずかに分かることは、日本と中国(恐らく、朝鮮半島が中国のなんとかという国の版図に含まれていたのだろう)との間で細々と交流というか、人の行き来があって、中国人は文字を使い、日本にも文字が読める人がいた—ということだろう。