2011年10月25日火曜日

日本の呼称の最古の例が中国で発見。

▲日本という国名をいつから使い始めたのか…という古代史の謎に一石を投じたような史実がでてきたようだ。

678年に死亡した百済人の墓誌に「日本」の文字が刻まれていたという。

日本の朝鮮半島を巡る古代史の「時の回廊」に迷い込んだような思いがする。

以下、新聞から抜粋。

中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。

墓誌は678年の 作と考えられるとしている。

日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の 大きななぞ。

大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら さらにさかのぼることになる。

中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は 吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。

祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。

884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。

百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の 戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。

その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は 口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。

「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に 閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。

▲補足、感想など

白村江(はくすきのえ)の戦いとは、当時、世界の最強国であった唐と新羅との連合軍に日本が敗れた戦いであった。

—ん、なにかなぁ、と思う。

日本という国は、中国の冊封体制の中に結局は組み込まれなかった訳だが—まぁ、オレはオレ、アンタはアンタという中国との関係となるきっかけをこの戦いはつくったのではあるまいか。

それ以前に、聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に出した手紙で、日出るところの天子うんぬん…と書き、煬帝を怒らしたという逸話で、中国の冊封体制に組み込まれないことは意思表示していたのだろうな。<いささか、聖徳太子のはったりというかつっぱっている感じがするが…>

ウィキペディアの白村江の戦いから、少し抜粋し、当時の日本と唐の関係にふれたい。

648年ごろより新羅と唐の間で百済攻撃の相談が行われ、一方649年には新羅から金多遂が倭国に派遣されるなど、倭国に対する外交工作も活発化した。

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中、警戒感が高まった。唐が百済を海路攻撃すると可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。

651年、左大臣巨勢徳陀子が、中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。653年・654年と連続で遣唐使が派遣されたのもこの情勢に対応しようとしたものと考えられる。

660年、新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済は滅亡した。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いた。

こののち、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

百済再興の為には同盟国である倭国の助けが不可欠だった。

中大兄皇子はこれを承諾し、661年に斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死。

朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。→白村江の戦いとなり、敗戦。

天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。

また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。

667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成。

対して「665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。

この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。その大使らは、唐の高宗の泰山封禅儀式の際に唐に対しての臣従を誓った。」との説もある。

天智天皇は唐との友好関係を強化しようと、669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。

670年正月)には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯(きしつしゅうし)は小錦下の位を授けられた。

『三国史記』によれば、670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つにはこうした風聞を受け唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。

→どうだろうか。

白村江の戦いの前後、中国—朝鮮—日本の3国の間で、虚々実々の駆け引きが行われていたことが理解できる。

唐軍の来襲を恐れて、防人(さきもり)を駐在させたのだが、遠く今の静岡県付近からも壱岐、対馬へ派遣された。

万葉集に中にも防人へ出された人々の歌が残っている。

-父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる(丈部稲麻呂)--

これが千年を越える以前の我々の先祖の歌なのだ。痛いほど意味が分かる。これは凄いことだと思わないか。

いや、話がどこかへいった。

筆者の言いたかったことは、こういう唐・新羅軍に破れて傷つき、唐からの来襲に怯えた状況の中で、倭(やまと) → 日本 と国名を決めたということだ。

奈良時代の日本人が、唐という大国に向かって、オレは冊封体制に組み込まれないぞ、オレはオレだ…と言い放った言葉に聞こえないか。