2012年7月27日金曜日

橋下さんの文楽への批判は軽率であり、伝統芸能への理解が浅すぎる。


▲大阪市長・橋下さんの文楽についてのコメントは、どうも軽率すぎる。
伝統芸能というものは、江戸時代の庶民に愛され支持されつづけて、現在まで残ったものだ。
現在人の視点からみておかしいと思うことは多々あるだろう。
それでも、と思う。
過去・江戸時代いや、それ以前からの日本の人形劇が発展してきたものなのだ。
過去の日本人が愛し、支持しづつけた芸能を、簡単に批判してはなるまい。
そういえば、雅楽なんてものも日本にはある。
中国の唐とか、隋の時代に中国で演じられていたものであろう。
それが遣唐使などの伝達手段で、日本へ渡り、日本で1000年以上の歴史をもっているのだ。
これを現在人の視点で簡単に批判していいものなのか。
文楽に関するコメントは、橋下さんが軽率だと批判されても致し方あるまい。
以下、新聞から抜粋・

大阪市の橋下徹市長は27日、補助金の削減を打ち出している文楽について、 「ふに落ちないのは人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」と疑問を投げ掛けた。
 文楽は、三味線奏者と人形遣い、物語を読み上げる太夫で構成。主役級の人形は3人で操られ、 顔と右手の動きを担う「主遣い」は顔を出し、ほかの2人は顔や姿が目立たないように黒子の衣装を着るのが一般的だ。
文楽協会によると、もともと人形遣いは全員が黒子だったが、太夫や三味線奏者の姿が見えていることに合わせ、 ある時期から主遣いだけの顔を見せるようになった。ただ詳しい由来は分かっていないという。
 市長は「重鎮の言うことに若手が何も言えない(文楽の)構造を変えないといけない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」と述べた。


▲補足、感想など
筆者は、文楽を一度見に行ったことがある。
確かに、主たる演じ手の顔が見える。
しかし、人形に集中していると顔を意識しなくなる。確かに見えているのだが、見えないという状態となる。
演題は、傾城阿波の鳴門と俊寛だったかな。
阿波の鳴門では、ととさまの名は? ---という場面で泣いてしまった。
俊寛は、鹿ヶ谷の陰謀により、俊寛を含む3人が鬼界ヶ島に流される。
翌年、俊寛を除く2人が許され、二人を連れて船が沖合に漕ぎ出すと、俊寛は波打ち際で泣き喚く。
数年前までは、華やかな都にいて、今は鹿児島の遥かな沖合の鬼界ヶ島に自分がいる。 2人は許され自分一人のみが残された絶望感・寂寥感のようなものが見るものの胸を打つ。
文楽は、人形劇として一つの頂点に達したものだと思う。
それを現在人の視点から安易に批判すべきではない。
この人形劇は、江戸時代の日本人が愛し支持し、人形劇として洗練させたものだ。
大切に守り、未来へ送り届けるものだと筆者は思う。