▲筆者は、中村天風という人の話が好きだ。
この本は、中村天風氏の講話を、速記で記録したものだろうと思える。
宇野千代さんも、中村天風氏の話が好きで、こういう講話の速記本を出版したものだろう。
話の内容は、もう、講演であるし、あちこちへ飛んでいるのだが、一番、肝心な部分はやはり、最後の部分あたりに書いてあった。
筆者なりに、中村天風さんの話の「要」の部分を抜粋転記してみよう。
-ここから-
病気の人もありましょう。また、運命的に恵まれない人もありましょう。それを恵まれない、恵まれないと言ってからに、窓をしめて暗くしているような人生に生きるのでは、人間として生まれたからにはもったいないことじゃないでしょうか。
死なない限りは生きているんですから、たとえどんなことがあろうとも、生きているというこの有り難さを心に思い、どんな辛いことがあろうとも、どんな悲しいことがあろうとも、すべてこの俺が、もっと高い心の境地になるための天の試練なり、というふうに考えて、それを喜びと感謝に振り替えたら、どうでしょう。
-ここまで-
これが、中村天風さんの「伝えたいことのすべて」だ。
簡単というか、あほらしいほど、簡単明瞭なことだ。
でも。
心が塞いでいるときは、この「境地」にたどりつかないのだ。
なにか、目の前にある「痛い」「もやもやする」「どうしていいのか分からない」とか、「他人の目が怖い」とか—そんな夾雑物に目が塞がれ、遮られてしまうのだ。
あれこれ悩んで、結局、たどり着いてしまえば、簡単明瞭。
天風先生の言われるとおりだ。
死なない限り生きている → もったいないじゃないか → 今生きているという喜びと今生きているという感謝に振り替え、とにもかくにもなんかやってみよう
天風先生は、中年の頃、奔馬性なんとかという病気にかかつて死にかけている。治療方法をみつけるために世界中を回り、ヨガの大家とめぐりあい、インドの奥地でヨガ修行をしているうちに、「見つけた境地」が上掲のものだ。
今日死ぬか、明日死ぬか---と思い悩むと、「今、とにもかくにもいきている」という「現実」に気がつかないのだ。
その現実に気が付き、そのことが「もったいないじゃないか」と思え、じゃ、今こうして生きていることを喜び、感謝する—という思いに達し、じゃ、明日の朝から、植物に水をかけてやろう---と決心する。
このことが一番大事だと天風先生は言われているのだ。
実に、簡単明瞭だろう。だれにでもできるだろう。それが大事なのだ。
★追記
上記のことを関西風に言ったらどうなるのかなぁ。
「いろいろシンドイことがありそうやけど、アンタ、まだ生きてはるやないか。なら。なんぞ、好きなことをやってみなはれ」---てな感じとなるのかな。
大事な点は、「アンタ、まだ生きてはるやないか」という部分だ。目も見え、耳も聞こえ、指が動いて、足がともあれ使えるというなら、なんでもできる--そう思わないか。
そういえば、こういう視点を変えるというのは、水平思考というようなものがあったな。
そんなものに近いのかもしれないな。