2017年2月12日日曜日

常識的に生きることの大切さ

女性の賞味期限なる言葉をみて、女性に対して失礼だな—と感じた。
 確かに、子どもを産むという行動には、期限がある。
 そのことを思いつつ、表題の「常識的に生きる」ということの大切さを噛み締めた。

 以下、新聞から抜粋。

 女の格差はいつから始まった?
 これまで2万人以上のワーキングウーマンの恋愛や婚活、結婚を取材してきた私が、最近の女性達のある感情の傾向が気になっている。
 それは「不機嫌」だ。

 女性達の慢性的な不機嫌さが顕著になってきたのは、2014年ごろだ。
 女性の格差意識が目立ち始め、同年には女性のマウンティングを描いたテレビドラマ『ファーストクラス』が話題になった。
 昨年は高層マンションに住む主婦たちのカーストをベースに描いたミステリードラマ『砂の塔』など、女性達の格差を描く傾向は突き進んでいく。
 昨年はあらゆる世代の貧困がマスコミを賑わせ、一部の富裕層も貧困に対する関心も高まり、もはや格差は当たり前のようにそこに存在していった。

 女性が格差を意識するようになったのは、03年の「負け犬の遠吠え」のヒットからだろう。
 だが当時は、「負け犬」と呼ばれても不機嫌にならずそれを笑い飛ばす、余裕のある女性も多くいた。
 結婚しているとかいないとか、子どもがいるとかいないとか、そんな状況を、「自分の意思だけでは決まらないから」と、「負け犬」には、逃げ道があった。深刻にならない女性もいた。

 格差が進むきっかけは2009年の流行語大賞に「女子力」という言葉がノミネートされ、「女子」にまつわる言葉が数多く生まれてからだろう。
 「女子」という言葉が一挙にアラフォー世代にまで勢力を伸ばし、その後の「女子会」を筆頭にブームは拡大していく。
 「干物女」「こじらせ女子」「キラキラ系女子」「タラレバ娘」と、特徴を差別化し記号化するように「〇〇女子」が多発していった。
 その帰属意識を嫌悪して「無所属女子」と、フリー宣言をする女性ブロガーの登場など、「女子」を巡る様相はさらに賑わっていく。

 私は様々な女性の生態を表す「○○女子」という言葉に込められる女性の意識を、面白いなあと思っていた。
 「○○女子」というのは通過点だと捉えると、緩やかに成熟していくまでの過程に、「女子」がいてもよい。

 ところが、女性達の慢性的な「不機嫌」は、終息に向かうどころか、ますます拡散していくように見える。
 それに気づいたのは、あるアラサー女性の訴えがきっかけだった。

■婚活にそびえる「33歳の壁」

 「33歳の自営業です。仕事は厳しいけど、やっと実績が認められるようになり、やりがいも感じています」
 彼女の表情が、次の瞬間に、みるみる曇っていく。 「仕事を続けながら、結婚もしたいです。でも“33歳の壁”があって。焦りますね」。

 “33歳の壁”とは何か。それは35歳で女性が高齢出産の時期に突入するため、 婚活市場では、子どもを望む男性が求める女性のひとつの区切りとなる年齢だという。
 「33歳まで結婚して、ぎりぎり妊娠して34歳ちょっと。
 35歳前に出産してくれる女性が婚活市場では求められるというのが、現実です」

 2012年に放送されたクローズアップ現代『産みたいのに産めない~卵子老化の衝撃~』によると、 35歳の不妊治療した人で子どもが生まれた割合16.8%、40歳では8.1%と報道している
 子どもを望む男性ならば、自分の子どもを産んでくれる可能性の高い女性を選ぶのは理にかなうが、それだけが女性の価値と判断する男性の在り方は疑問だ。“33歳の壁”に悩む女性たちに、心がちくちく痛くなってしまう。

 そもそも結婚とは年齢で決めるのではなく、人柄や個性を重視するものではないだろうか。
 互いに愛情を持ち真柄夫婦として生きていくことを考慮して、結婚の条件に「価値観の一致」と挙げる人も多い。

 35歳という年齢だけでその射程範囲から外されてしまうのは、実に腹立たしい。
 「女性は生む機械」と発言し女性蔑視と批判された政治家がいたように、実は婚活市場ではそれがもっとも主流な考え方なのではないかとさえ疑ってしまう女性も多いだろう

 35歳を過ぎれば自分はもう女として見られない、純粋にパートナーを探したいのに、年齢という壁が幸せ願望を遮ってしまう。
 そんな「女性の賞味期限」にまつわる余裕のなさや焦りや不安が不機嫌となって現れているのではないだろうか。
 --後半は略--

補足、感想など

 文章の後半は略した。
 どうも、35才を越えた未婚の女性の言い分は、「痛々しい」。
 冒頭でふれた。
 結婚したいなら、男女ともに30才までに結婚したらどうだ—と思う。
 そのあたりが、「常識的に生きる」という部分であろうし、人生を後悔しないコツというか技術だと思える。

 そもそも、男女ともに30才位までに「ここらで手を打つ」というタイミングが何度かあったのではないのか。
 じゃ、なぜ、「ここらで、手をうてなかったのだ?」
 むしろ、その決断力の無さこそが、「結婚できない真の理由」ではないのか。

 その決断力も結局、常識に支えられたものであろう。
 「常識的に生きる」ということの大切さをつくづく、上の記事を読んで思う。