2011年8月31日水曜日

嵐の日本紹介は、なにもかも安っぽい。ロバート・デ・ニーロが紹介すれば。

▲嵐が日本観光を勧めている動画を、観光庁が作ったようだ。

それを、外国人記者が表題のごとく批判しているのだが…。

さてなぁ、と筆者は思う。

ロバート・デ・ニーロが直接、紹介すればそりゃ確かに重厚な感じにはなろうなぁ。

だからといって、キャスティングに嵐をもってきたことが、「なにもかもやすっぽい」と非難されることなのかなぁ。

そこに日本人が感じている感覚と外国人が感じる感覚というか、視点の違いがあるようだ。

以下、新聞から抜粋。

日本がここまで世界の笑いものになる例がほかにあるだろうか──人気グループ「嵐」が日本観光を呼び掛ける観光庁のキャンペーンだ。

観光庁は日本を、歴史的な遺産も自然もなく、若者が君臨する国として世界に宣伝したいようだ。

豊かな文化がある日本で、なぜ外国人観光客が少ないのか。

以前から不思議だったが、なるほど観光庁のせいだったのだ。

日本を笑いものにして いるのは日本人自身だ。

観光庁が制作したPR映像を見ていない人のために内容を説明しなければならない。

嵐のメンバーがそれぞれ日本の観光地を訪れ、招き猫のまねをして「ニャー」と鳴く。それだけだ。この映像は7月から世界 133カ国・地域の在外公館、国際空港や飛行機、駅のモニターなどで流れている。

要するに観光庁が宣伝しているのは嵐で、日本はそのステージにすぎない。制作費はもちろん、国民の税金だ。

嵐の顔はアップになるが、景色はほとんど映らない。せっかくの沖縄も太陽は見えず、砂浜はぬかるみのよう。北海道は食堂が、鹿児島は通りが映るだけだ。

もちろん、京都の祇園も金沢の兼六園もなし。

日本は美しくて洗練されたモダンな国だと外国人に思わせそうな、美しい映像は一切ない。

「嵐の日本」は何もかも、彼らの甘ったるい曲のように安っぽい。

日本の素晴らしさの源が破壊され、汚され、ばかにされている。

時間を味わうはずの茶室の場面は3秒ほど。舞妓は嵐にニャーと鳴かせるための添え物だ。祭りは腹立たしくなるような踊りを嵐が披露する場で、数百年の伝統を受け継ぐ踊り手は無視されている。

世界屈指の美食の国で、嵐が食べるのはソフトクリーム。ソフトクリームを食べに日本へ来ようと思う人がいるだろうか。

寺を訪れた嵐は僧に木の棒でたたかれる。たたかれるために旅行をする人は私の知る限りいないのだが。

7月の記者会見で観光庁は、PR映像が世界133の国と地域で流されると胸を張った。

そのうち129の国と地域では大半の人が嵐を知らないから、映像を見たいと思う人も多くないだろう。日本にとってはありがたい。

私は記者会見で長官に、ロバート・デ・ニーロやジャッキー・チェンなど、日本好きで知られる著名な外国人を起用してもよかったのではないかと聞いた。

外国人は、自分のお気に入りの国の最高のPR大使になれる。彼らの意見は中立的だとみんな知っているからだ。

彼は、「なでしこジャパン」が日本観光の後押しをするだろうと言った。しかし、日本の女子サッカーに関心のある外国人はまずいない。

日本はなぜ「最高の顔」で自分を売り込もうとしないのか。洗練された職人や建築家、知識人、画家、料理人ではなく、国内限定のスターを宣伝に使うなんて。

日本には高級志向の観光客にふさわしいものがそろっている。彼らは人数は少なくてもお金をたくさん使い、訪問先を破壊しない。

素晴らしい国を自らばかにする。そして、その現実を誰も理解していない。日本人はそれで本当に構わないのか。

▲補足、感想など

この記事の著者は、

- -レジス・アルノー氏
1971年、フランス生まれ。仏フィガロ紙記者、在日フランス商工会議所機関誌フランス・ジャポン・エコー編集長を務めるかたわら、演劇の企画なども行う。---

 さて、どうだろう。

記事で取り上げている動画は、ユーチューブで見れる。

この記者の言わんとするところが分からないわけではない。

どこらに核心があるのかなぁ。

この著者はフランス人らしいが、西欧の社会といものが、より区分された固定された社会だということなのだろうなぁ。

上流社会、下流社会というだけでなく、芸術家、職人、料理人とか、職業をなんらかの形で選択すれば、それで固定してしまう…そういう社会だということなのだろう。

日本は、そのあたりが区分されていないもっと流動化した社会なのだ。

そりゃ、確かに嵐の歌が、やすっぱいかどうかは分からないが、うまい訳ではない。

でも、嵐というグループに限らず、それに属している人間は、俳優であり、ナレーターであり、司会者であり、もしかしたら、小説家になるかもしれない…そういう存在なのだ。

結局、日本の社会というものが階級社会ではなく、所謂、一般人というものの知的なレベルが世界からみて異様に高い社会だということなのだ。そして、その事実に西欧人はなかなか気がつかない。

フランス人の著者からすれば、嵐というものは下手くそな芸人であり、そんな人間に日本紹介というような大役を任すなという…そういう怒りなのだろうなぁ。(なにか、そこらあたりに芸人に対する蔑視に近い感覚が潜んでいるのではあるまいか)

嵐が招き猫のまねをして、「ミヤー」というより、ロバート・デ・ニーロが日本の各地で紹介した方が重厚であることは確かだろうが、世界に向けてのPRとして、どちらが世界の人達から受けがよく効果的なのだろうか。

上でも書いたが、嵐のメンバーが単なる歌の下手な芸人という訳ではない。

筆者には、さほどの違いがあるとは思えないのだが。

デニーロなら、より効果的だろう…という視点に筆者は、どうも違和感を抱く。

 いや、デニーロという名前で、思い出した。

 どこか日本のど田舎の日本酒の造り酒屋にお忍びでくるのだそうな。地元の役場はどう接待していいものか…と頭をかかえているとかいう文章を読んだなぁ。