2012年6月26日火曜日

インド人監督がインパール作戦を映画化。


▲先の大戦で、インパール作戦というものは日本にとって最も悲惨な作戦であったろう。
しかし、インド側から見れば、インド独立のために多大な死者をだしてまで助けてくれた作戦となるようだ。
ものごとの二面性といえばそうだ。
さて、戦後もう60数年となる。
こうして、日本のやったこと、やろうとしたことを見なおしてもらえるのは嬉しい。
そういえば、アメリカで戦時中、日本人のみが収容所へ収容された訳だが、これも映画となって、随分感銘深い映画となったとか。
以下、新聞から抜粋。

インド人の映画監督が今秋、第2次世界大戦で日本軍が大敗を喫したインパール作戦の激戦地、 インド北東部マニプール州で、おじの日本兵の足跡をたどる女性を主人公にした映画を制作する。
気品にあふれた真の日本兵の姿を伝え、現地の人々の記憶に残るエピソードを紹介したいという。
メガホンをとるのは、モーヘン・ナオレム氏(34)。
「マイ・ジャパニーズ・ニース」(私の日本人のめい)と題された作品では、 インパール作戦で戦った日本兵のめい「アサダ」が戦後、現地を訪れる。
すると、おじが夢の中である村を訪ねるようアサダに呼びかける。
そこでアサダは、日本兵らが残した数々のメモや日記を発見するというストーリーだ。
インド人の手でこうした映画が制作されるのは初めてで、撮影は9~10月ごろに始めるという。
日本軍は1944年のインパール作戦で、連合国側の中国への補給路を断とうとしたが、無謀な計画のために敗れ、多くの戦死者を出した。
現地で取材中のナオレム氏は産経新聞の取材に「マニプール州の人々には日本人とともに戦った記憶がある。日本は今も多彩な援助をしてくれており、日本人に親愛の情を示したいと思っていた」と答えた。
ただ、「日本兵の記憶が徐々に人々から失われている」といい、「まだ知られていない話を集めて映画で伝えたかった」と撮影にかける思いを吐露した。
また、「欧米では日本兵の残虐行為や犯罪に関する話が書き立てられているが、日本兵はもっとも気品があり親切な心を持った人々だった」としている。
ナオレム氏は同州での公開後、日本での上映に向けて協力者を探している。
アジア各地での発表も模索しているという。

▲補足、感想など
この映画、日本で上映するとなると、朝鮮系帰化人に牛耳られた日教組あたりからなにか言ってきそうだな。
まぁ、いい。お好きにどうぞ。
日本とインドとの関係か。
そういえば、光機関の話を読んだことがあるなぁ。ご紹介したい。
- -ここから
光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。
「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ」
いったん射撃は止みましたが、また射撃してきます。
今度は日本人工作員が立ち上げって両手を広げヒンズー語で叫びます。
「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前たちに話しに行くところだ武器は持っていない」
そうすると今度はまたインド工作員が再び日本兵の前に両手を広げて立ちます。
この繰り返しにとうとう相手は根負けし、 英インド軍の一個大隊すべてが寝返ってしまったというものです。
--ここまで
なお、光機関については、ウイキペディアから抜粋してみよう。
--ここから--
機関はやがて500名を超え光機関と改称。
光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動のスバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ-スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の名はインドの言語で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。
支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。
途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。
結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とインド国民軍は連合国軍に降伏した。
- -ここまで
確かに、日本はこうして負けてしまった。しかし、それからのアジアでも独立運動を経て、独立した年月日を確認してみよう。
1945 8月 終戦の詔勅
1945 8月 インドネシアがオランダから独立宣言
1945 9月 ベトナムがフランスから独立を宣言
1946 7月 フィリピンがアメリカから独立
1947 8月 パキスタンがイギリスから独立
1947 8月 インドがイギリスから独立
1948 1月 ビルマがイギリス連邦から独立を宣言
1948 2月 スリランカがイギリスから独立
→日本の敗戦なくして、これだけ早くアジア各国が、西欧列強国からの軛(くびき)から抜け出せたと思うか。