2011年6月21日火曜日

中国が世界の工場ではなくなったとか。

▲中国を世界の工場とかいう表現が、時代遅れなのだとか。

 記事としてはそんな感じで書いてあるのだが、視点がそもそもおかしい。

 なにか、根本のところで、経済というものが分かっていない人間が書いた記事のようだ。

 まず、中国人の書いたその記事をご紹介したい。

 以下、抜粋。

 新華社通信によると、米誌タイムはこのほど、中国の安価な労働力の時代はまもなく 終わりを迎えると伝えた。

 インフラ整備や不動産建設、輸出の拡大が経済成長を促し、中国人労働者の賃金が過去10年間に毎年約12%のペースで上昇していることが背景にある。

 中国の安価な労働力時代の終わりによる連鎖反応は巨大で、世界規模になるとみられる。

 中国では沿海部の労働コストの上昇が西部地区に大きな変化をもたらしている。

 過去1年、多くの工場が安い労働コストを求めて西部地区に移転した。

 西部開発を奨励してきた中国政府の角度から見れば、これは非常に望ましいことだ。

 中国の貿易相手国にとっても、中国国内の消費能力が高まることによって巨大な貿易不均衡の解消につながる可能性が出てくる。

 多国籍企業の多くはこれまで、コストの安い中国から海外へ輸出するため、工場を中国に建設してきた。

 華南米国商会が8年前に行った調査では、中国で製造する商品を輸出向けとしている会社は75%だった。

 しかし昨年行った調査では、75%の会社が中国市場へ供給していると回答した。

 中国人は今まさに豊かになり始めている。

▲補足、感想など

 中国人が豊かになったのは間違いはあるまい。

 しかしなぁ。

 アメリカのタイムの記事は、この記事が結論のように書いている「まさに豊かになり始めている」という意味ではない。

 中国人の賃金が上昇し続けている。安価な労働力を提供する時代は終わった・・と書いてあるだけだ。

 日本で言えば、昭和20年代頃の感覚かな。

 賃金が安いこと、円が安いことで、衣料品などを海外へ輸出していた。

 そして、昭和30年台に入って、日本ではソニーのトランジスターラジオとか、造船とか、現在でも残っているブランドの会社が海外へ製品を売りだしたのだ。

 昭和30年代半ばの所得倍増計画なるもので、輸出の好調さと相まって、日本は高度成長を続けた。

 さて、この日本の軌跡と比較して中国はどうなっていくだろうか。

 上記の記事の内容と、今、筆者が日本の軌跡を説明した文章を読んでみると、「豊かになる」という意味が違うことに気がつくだろう。

 中国人の「豊かになる」というのは、例えば、ユニクロなどの企業の製造を担当していて、ユニクロと交渉して賃金を上げてもらった・・という意味でしかあるまい。

 日本の昭和30年代からの高度成長とは、ソニー、松下とか、造船、セイコーの時計とか、日本のメーカーが独自に開発した製品が外国で売れたことによる高度成長なのだ。

 今、中国は日本で言えば昭和30年頃の感じなのだろう。

 これから、記事で書いてあるように「豊かになる」ためには、中国のブランドで製品が売れる・・ということが必要なのだ。

 多国籍企業は、賃金が上がれば、もっと、賃金の安い国、もっと企業として歓待してくれる国へ移っていいくだろう。

 上で例に掲げたユニクロは、もう、中国を離れ、バングラデシュへ工場部門を移したようだ。

 つまり、下請けで、元請けと賃金交渉するだけでは豊かにはなれないのだ。

 上掲の記事の「おかしな点」はこのあたりだなぁ。

 米・タイムが書いた、もはや低賃金労働力の国ではない・・というのは、多国籍企業が中国から離れていくという意味だ。

 これからは、中国人が自ら開発したブランドで国際間で勝負できるか・・ということが問われるのだ。

 しかしなぁ。

 情けないことに、中国人は「経済」というものが分からないのだなぁ。

 こんなピント外れの記事が(しかも、新華社通信の名前で)出てくることに恥ずかしさを感じよ。

 こんな記事が表にでるようでは、日本が昭和30年代始めに、低賃金の国 →高度成長の国 へと切り替わったようには、中国はスムースに切り替わることはできまい。

 結局、中国人が根底にもつ「中華思想」が、こういう国として重要な切り替えのタイミングを見落とさせるのだな。

 なるほどなぁ。

 中国が、日本の明治維新に100年遅れる・日本の敗戦時に35年遅れる・・という歴史があったが、それと同じように、低賃金→高度成長への「チャンス」を「チャンス」と正確にとらえることができない・・ということか。

 中国人はどこまでもどこまでも中華思想にこり固まった民族なのだなぁ。