2018年6月29日金曜日

人食い中国人の日本人の「漢字利用」に関わる批判はピント外れだ


漢字については、日本人は中国人に感謝している。
 日本は、ユーラシア大陸から海に入った島嶼国家だ。
 刺激が乏しいことで、自らの文字を生み出すことができなかった。

 弥生時代からの物々交換で、大陸と接触し、徐々に漢字を取り入れてきた。
 取り入れた漢字の「音」を利用して、万葉仮名として利用し、ひらかな、カタカナを生み出して、結果、漢字仮名交じり文という日本人なりの文体を完成させた。

 以下、中国の新聞から抜粋。

2018-06-28
 日本旅行を楽しむ中国人が増えているが、その理由は距離の近さはもちろん、「漢字が読めるので便利」であることも大きく関係しているようだ。
 買い物をするにしても標識を見るにしても、漢字が分かれば意味は大体理解できるからだ。
 中国メディアの快資訊は、日本の街によく見られる漢字は中国と同じなのかと題する記事を掲載した。

 記事はまず、日本は「我々の漢字であふれている」と紹介。
 漢字の起源ははるか紀元前にさかのぼるのが、中国人にとっては自分たちが起源であるという意識が強いようだ。
 それはさておき、日本で中国人旅行者は漢字のおかげで意味は「半分くらい」わかるため、便利に感じるという。
 しかし逆にいうと、半分くらいは分からないということになる。
 その理由について記事は、ひらがなとカタカナという日本独自の文字があるからだと指摘。
 ひらがなもカタカナも漢字を基に日本人が創りだした文字だが、「外側だけを真似て意味が伴わなかった」と紹介した。

 また記事は、過去には漢字が日本から消える可能性もあったと紹介。明治維新のころには漢字廃止論も出たものの、すでに漢字が国民に浸透していたうえに、漢字をなくせば後代の日本人が漢字で書かれた昔の書物を読めなくなり、歴史や文化遺産を理解できなくなった可能性があったと指摘した。
 記事は、このように日本における漢字の遍歴を紹介しながら、漢字を廃止しようとしたことや、漢字からひらがなやカタカナを作って文字を変えてきたことに不快感を示した。

 現在では日本の常用漢字は中国のそれよりも少ないが、それも「中国の古代文明の伝承から抜け出したい」気持ちの表れだと主張。文字を自分で作りだすこともできず、かといってそのまま使うわけでもなく独自の文字を作った日本人は「非常におかしな」人たちであると締めくくった。
 実際のところ、多くの漢字の意味は中国語と変わらず、最近では「偽中国語」なるものまで日本では流行しているが、中国人が見てもだいたい意味が通じると言われる。
 一部の漢字は中国語と意味が異なっているが、その多くが日本では古代中国語の意味を残しているのに対し、現代中国語では意味が変化してしまったものだ。
 やはり日本人は、漢字に対して深い敬意を抱いていると言えるのではないだろうか。

補足、感想など

 どこに核心があるのだろう。
 漢字オンリーの漢文という言語は、不完全なものだ。
 漢字オンリーでは、高度な概念を他者に正確に伝えることができまい。
 つまり、他者からの「言葉」では、「正確に情報」が伝わっていないのだ。ボンヤリとしか理解できない。
 文章でも、話し言葉でもそうなのだ。
 中国人が英語を利用するのは、この「中国語の持つ不完全さ」を補足しているからであろう。

 日本語のひらかな、かたかなは、表音文字だ。
 意味をもっている訳ではなくて、音を表示する文字だ。
 漢字とこの表音文字であるカナを混在させて、日本人は、漢字かなまじり文という文体を完成させた。
 これは、情報を正確に他者に伝えることができる。
 日本人が、世界最強民族だとか---うわさがあるが、それを支えているものが、この「漢字仮名交じり文」を採用しているおかげであろう。

 記事では、中国人が日本人の「漢字かな交じり文」の採用を批判しているが、それは的ハズレであろう。
 漢字を取り入れる前から、文字はないものの「日本語」は存在していたのだ。

 元々の日本語と取り入れた「漢字」をどう使うかで試行錯誤して、もっとも適したものとしてとりいれた形が、たまたま、「漢字かな交じり文」であったということだ。

 ちょいと、日本語と中国語の対応した文章例をみようか。

--ここから--

ミト : はぁ!?動いとる…。 まるで生きとるようだ… ユパ様, これは…
(啊?它在动.好像还是活的!尤伯先生,这是.

ユパ : 旅の途中で不吉な噂を聞いた。 ペジテ市の地下に眠っていた旧世界の怪物が堀り出されたと言うのだ。
(我在旅途中就听说过不祥的传言。据说长眠在贝契特地下的怪物.旧世界的怪物已经被挖掘出来了。)

ミト : 旧世界の怪物?      
(旧世界的怪物?)

ユパ : 巨神兵だ。
(巨神兵。) 

 --ここまで--
 
 意味はなんとか通じている。
 ただ、細かいニュアンスは無理であろう。

 上でボンヤリと筆者は書いたが、中国人自身は、べつに「ぼんやり」という感覚ではあるまい。
 かなが存在しないというのは、これだけの違いを生むのだ。

 漢字オンリーでは、正確に情報を他者に伝えることができない—ということを認識した上での、中国人の英語教育なのではあるまいか。

 「かなが無い」ということを原因として、現在の中国人の識字率30%というのは一つの現れであろうし、また、英語をここまで勉強しなければならない—というのも、「かなが無い」という原因に基づいているのだろう。

 ついでに、教育から見放された「文字の読めない=文盲」のヤクザ・ゴロツキの多さも、結局のところ、「かなが無い」という原因から引き出されたものではないのか。