▲訃報をみて、「巨星墜つ」という言葉が浮かんだ.
筆者は表題の通り、団塊の世代だが、10代の終り頃からどれだけ小松さんの本を読んだか。
膨大な科学知識に裏付けられた小説の文言がどれだけ好きだったか。
一例として、物理学にプランク恒数というものがある。この恒数が宇宙のどこか基地局で決められていて、ダイヤルで右に左に回して恒数を変化させる「こんな世界」てな短編があったような記憶がある。
年齢を考えれば、当然こういう日がくるのはわかっていたことなのだが。
あぁ、ちょうど30年前に小松さんの50歳の誕生パーティという催しがどこかであって、その時小松さんが壇上で明るく挨拶している写真を思い出した。
もう、筆者の頭の中にあるだけなのだが。
以下、新聞から抜粋。
「日本アパッチ族」「日本沈没」などの作品で知られ、SF作家の小松左京(こまつ・さきょう、本名・実=みのる)さんが26日、肺炎のため死去した。
80歳だった。
大阪市出身。告別式は親族で済ませた。
京都大学文学部イタリア文学科在学中から作家の高橋和巳らと交流し、文学活動に参加。
卒業後は業界紙記者、土木工事の現場監督、漫才の台本作家などさまざまな職業を経験した。
昭和36年に『地には平和を』で「SFマガジン」の第1回コンテストで努力賞。
SF作家としてデビューした。
空襲で焼け野原となった大阪城周辺の廃虚を舞台に、鉄を食料にする一族を描いた「日本アパッチ族」(昭和39年)のほか、「復活の日」(同)「果しなき流れの果に」(41年)など、人類と現代文明の未来を探る構想豊かな作品を次々と発表。
日本でのSF小説を開拓する草分け的存在となった。
地殻変動で日本列島が水没し、日本民族は国土を失うという設定の「日本沈没」(4 8年)は広範な知識に裏づけられた巧みな空想力が話題を呼び、400万部の大ベストセラーに。
日本推理作家協会賞を受賞したのをはじめ映画、テレビ・ラジオドラマ、劇 画にもなった。また60年には「首都消失」で日本SF大賞を受賞した。
文明評論家としても知られ、45年には国際SFシンポジウムを主宰。平成2年、大阪市で開催された「国際花と緑の博覧会」の総合プロデューサーをつとめたほか、昭和59年公開の映画「さよならジュピター」では脚本・製作・総監督をこなすなど多彩な行動力が持ち味だった。
▲補足、感想など
1970年の大阪万博のときも、なにかプロヂューサーをしていたと思う。
小松さんは、文字通り、無冠の帝王だった。
後年、sf大賞とかを受賞するが、そもそもsf なるものを作りあげたのがこの小松さんだし、無冠では…てな感じで、周りが押し付けたものだろう。
sfで世にでる前にはいろんなことをしていた。
たしか、マンガも「こまつみのる」というペンネームで出していたはず。
なにか演劇もやったとか聞いたなぁ。
脚本は当然として、音楽も作曲して、それを自らヴァイオリンを弾きながら舞台へでてきた…とか。
sfに入る切欠は、百科事典かな。
売れ残りかなにかの百科事典を押し付けられて、それを読んで書き始めたとかではなかったか。
昭和40年頃から膨大な知識に裏打ちされたsfを発表して、sfというジャンルを確立した。
筆者が小松さんの本を読み始めたのが、昭和40年頃からか。してみると、約45年くらいお世話になったことになる。
40年以上、この日本で共に生きてこれたことを深く感謝したい。
小松さんのご冥福をお祈りしたい。