▲似た感じの諺があったなぁ。
百年河清(かせい)を待つ—か。意味は、いくら期待しても実現の見込みがない、ということ。
中国でいくら待っても、「宮崎駿」は出現しまい。
そのことが、中国人にはどうしても分からないのだなぁ。
どこに核心があるのだろう。
そりゃ、別に頭の良し悪しでもないし、才能のある人間がいない訳ではあるまい。中国においても、韓国においても。
日本は、才能をもつ人間をうまく捉えることができる。才能をもつ人間の出現を助けることができる。
そのあたり簡単そうだが、日本と韓国・中国では大きな差がある。
その差が中国人・韓国人には分かるまい。
文字通り、ただただ「河清を待っている」だけだ。
以下、新聞から抜粋。
2014年秋に、制作費500万ドルの映画「Tofu Boy」の公開が予定、 製作者はこのキャラクターが中国のアニメに対する世界の関心を呼び起こすよう期待している。
ウォルト・ディズニーのアニメ映画に長年携わり、現在は北京を本拠とするスタジオ、マジック・ダンプリング・エンターテインメントを率いるケビン・ギーガー氏は、「世界的な共感を呼ぶ中国をテーマとするコンテンツを作成している」と話す。
「Tofu Boy」は ピノキオ物語にヒントを得ているが、それに基づくものではないという。
ギーガー氏と、監督のSun Lijun氏、脚本家のYan Yi氏、最高クリエイティブ責任者(CCO)の Feng Wen氏は09年に「Tofu Boy」を手掛け、現在では自分たちのアイパッドでスケッチのデジタル版を喫茶店の常連客と共有し、近所の子供たちから構想に対しフィードバックを募っている。
中国人が所有感を感じられるだけでなく、世界的にみても質の高い物語やデザインを伴うコンテンツを作成できれば、世界的にも成功できるだろう」と語る。
上海で、今では廃れた店で、豆腐製造者のワン爺さんが、息子がいたら人生は変わるだろうかとつぶやき、Tofu Boyが誕生する。
豆腐の性質を 利用してTofu Boyに形や感触を変える能力を与える。Tofu Boyは怒ると、固くなって臭い豆腐に 変身する。
「Tofu Boy」や中国の他のアニメにとって、中国国内にとどまらず、世界で共感を呼ぶことが成功 のカギとなる
▲補足、感想など
アマゾンの案内から、最近の日本の美少女もののフィギュアをみてびっくりした。
もはや、フィギュアという域を超えつつある。大げさにいえば、「芸術品」ぽくなってきた。
まぁ、これが日本だ、これが日本人だなぁ—とつくづく思う。
文字通り、世界に通用する「魔改造」されたフィギュアだ。
日本人は凝り性で、二次元の絵を3次元にするという作業を繰り返し繰り返しやっているうちに、「魔改造」という領域に自然と入っていくのだな。
そして、その領域で傑出した人間が出てくる。アニメ業界の場合には、それが「宮崎駿」だった。(その伝でいけば、造形師として△△◇◇と名前がでる人がもうすぐ出そうだなぁ)
上の記事を読んで比較してみるとその違いにようなものに気がつく。
違いとは、内発的なものと外発的なものとの差—とでも言えば当たっているのかな。
日本人の魔改造というものは、自分好みのフィギュアを造っているうちに、しらずしらず芸術品に近くなってしまったということだ。
中国人の場合には、最初から世界に通用するキャラクターをつくって儲けたい—という自分の外側からの動機づけであろう。
このあたりだな。
この違いを明確に意識できない限り、中国からは「宮崎駿」は出現しないし、世界に通用するキャラクターも生み出せまい。