2019年3月9日土曜日

歴史を紀行する 司馬遼太郎著 文春文庫 1976年10月刊行 感想


司馬さんの本って、頭一つ他者より抜け出している。
 まず、アマゾンでの感想を抜き出してみよう。

 評価は、4.7/5 --10人が感想を述べている。
 まず、そのいくつかをご紹介したい。

 --ここから--

当書に収載されている人間風土の特質等を巡る12篇の考覈は、『文藝春秋』昭和43(1968)1月号から同年12月号まで12回にわたって連載された「歴史を紀行する」が基幹となっている。
 当初は、より思索の内容に即した「歴史と人間と風土」といった書名を考えていたみたいだが、結局、原題を活かしたようである。
 故・司馬遼太郎さんが対象とした地域は、司馬さんの言葉を拝借すると、「基礎的には、その風土性に一様性が濃く、傾斜がつよく、その傾斜が日本歴史につきささり、なんらかの影響を歴史の背骨にあたえたところの土地」を選りすぐり、「記述にあたっては、その風土的特質が日本歴史の骨幹に交叉したという、その交叉部分がなんであったかを考えることに力点をおいた」(本書あとがき)という。そういった意味では、まさに日本の「歴史と人間と風土」を語った作品である。
 本書では、執筆当時の時代的制約があるにせよ、日本史上において強烈な人々を蔟出してきた高知(土佐)から大阪までの12の土地に関して、司馬さんは取材などを通じて風土性、傾斜性等を写出している。
 いわば司馬版「人間風土記」、あるいは今流に司馬版「秘密のケンミンSHOW」とも形容できようか。ここで司馬さんの言う「風土」とは、歴史的連鎖等に基づく「風土的気質、性格、思考法」(同上)といったことを指している。
 司馬さんは「その風土的特質から、人間個々の複雑さを解こうというのは危険である」とステレオタイプ的な人間理解を当然の事ながら戒めつつも、「その土地々々の住人たちを総括として理解するにはまず風土を考えねばならないであろう」とし、「ときによっては風土を考えることなしに歴史も現在も理解しがたいばあいがしばしばある」(同上)として筆を尽くしている。

 本書は、「会津藩」に対する司馬さんの見立てを知りたくて再び紐解いてみたのであるが、改めて全体を通して読んでみると、司馬さんらしいアイロニカルな表現なども看取できて面白い。
 然りとて、執筆時と比べ、日本社会の等質化が進み、歴史的連鎖による風土的特性が希薄になってきている、則ち、当書で司馬さんが好んで使う「傾斜」がなくなってきているかもしれない。
 この「傾斜」こそ、日本社会の展開力にもなっていたはずだ。ところで、当書では「近江商人を創った血の秘密〔滋賀〕」という一篇がある。私の父方の祖父母は江洲人(滋賀県人)で、昭和6年刊行の『近江人要覧』(近江人協會発行)にも掲載されているけれど、私自身は未だ故地を訪ねたことがない。
 当該考察によれば、司馬さんは「近江的商才の帰化人淵源説」を承允しており、近江は帰化人のものだった、とあるのだが…。


21世紀の今日では、日本広しと言えども47都道府県にそれぞれ固有な文化の差異や著しい県民性の違いを認めることは難しいかもしれない。
 著者は著作の中で頻繁に「長州人」「薩摩人」「土佐人」「水戸人」といったように、同じ日本人にもかかわらず、所属する藩が異なれば異人種の如く呼ぶことが多い。
 実際に幕末時点では、各藩(各県)が独特な風土と歴史を有し、その環境の中で育まれていった人々は必然的にその特徴を身に着けていた時代だったと思う。
 しかしながら、明治維新以降、さらには戦後にいたっては、各県固有の風土や特色は時代と共に薄れ、いまや「日本人」のひと言で括られてしまっているのだろう。
 昭和43年に、著者は高知を皮切りに会津、佐賀、鹿児島、金沢、京都、大阪など12の府県を、その土地が持つ風土と生い立ちを検証しながらの旅に出る。この本を紐解くと、やはりその土地土地が持っている風土や歴史がその地に生まれ育った人間に、少なからず影響を与えているのかも
しれないと思わせる。そんな微かな残り香は、21世紀の今日もそこかしこに漂っているような気がしなくもないのは気のせいだろうか。


☆「風土とそこに生きる人々の性質を描写する」をテーマとして描かれた旅行記です
 たとえば大阪人は陽気だ、という県民性への言説がある種のリアリティを持つようにそこに住む人々の最大公約数的な特徴と風土の間には関係性があるのかもしれません。
 一方で、県民性のリアリティを感じる瞬間とは、まるで確証バイアスのように自分の県民性イメージに合致する部分のみ注視し、県民性イメージの補強をしているようにも思えます。
 たとえば、大阪人の話が面白いと「やっぱり大阪人はお笑い上手なんだ」と思ってしまうように。
 小説家である司馬遼太郎はあえて、風土と人々の関係性についての理論的考察には深く立ち入らず司馬遼太郎特有のロマン、雰囲気、リアリティのあるファンタジーと仮定したうえで風土と人々の性質について、やさしくわかりやすく確かな説得力をもって論じていきます。
 対象地域はバラエティに富んでいますがなかでも面白いのが三河松平郷です。本書の描かれた当時は観光地化もされておらず山中にひっそりと残った風景について絶賛していますが晩年の著作『街道をゆく 濃尾三州記』では、観光地へと変わり果てた松平郷が描写されています。
 両著の読み比べてみると、司馬遼太郎の嘆息が聞こえてくるようで面白かったです。


☆「あとがき」にあるとおり、その土地の特性や風土で出身者の性格をステレオタイプに見てしまうことはあまり意味がなく、合理的でもないようです。
 司馬氏はそうした限界は押さえながらも、ひとりひとりが集まって集団化した場合、やはりその場所の歴史や風土というものが直接・間接的に集団に影響を及ぼし、特性を与えることに言及、そしてこのことは経験的にもうなずけるような気がします。
 こうした観点、認識からここに書かれた、鹿児島や山口、高知、会津といった司馬氏、お馴染みの地の叙述には、本質を突く視点があることに気づかされます。
 山口(長州)という土地は関ヶ原に敗れた後、毛利氏が閉じ込められた地であり、家臣団の一部は藩の財政難から多く農民化、そこでは、身分制に対する固執の度合いが相対的に薄く、関ヶ原で残った徳川氏への怨恨をベクトルに藩をあげての(奇兵隊が典型)体制が整った、と氏は説いています。(ここから先は司馬氏は書いていませんが)、そうすれば必然的にリベラルな風土が形成される一方、様々な人を束ねていく理念的なもの、観念的なものへの執着が人々の間に広まり、議論好きがひとつの特性として特徴づけられるであろうことは想像にかたくありません。
 逆に薩摩では、800年続いた島津氏のもと、議(理屈)を言うなということが美徳とされた感があるようです。
 土地の風土というものに、合理的な洞察を加え、その特徴を抽出し、そしてそれをいとおしみ(特に司馬氏の出身、大阪に対する愛着がひどく感じられます)、分からないことは分からないと素直に言明、作者の人柄も伝わる秀作だと思います。

 --ここまで--

 ちょいと、多く紹介してしまったか。
 上の文章にあるように、昭和43年(1968年当時)の日本の各地の「様」だ。
 街道を行くという企画を生み出した原本かもしれない。

 評価が、4.7/5 なんて、司馬さんならでは—という感じだ。
 どこも面白いのだが、島津義弘の関ヶ原から、千人が80人となるような際どい脱出をした後、薩摩に帰ってからの徳川家康に対する「工作」が印象に残った。その部分を抜書きしてみよう。

 --ここから--

 島津氏は本国に逃げ帰るや、国境の要所々々に防塞をきずき、国をあげて決戦の態勢をとった。それをしつつ重臣の鎌田政近を上方で活躍させ、家康と折衝させた。
 西軍参加の事情についてるるとして陳弁する一方、もし家康が承知せねば薩摩へござるべし、決戦つかまつるべし、といったふうの短刀をちらつかせつつ折衝した。 
 家康は当惑したであろう。家康にも重大な弱みがある。なるほど天下の兵をあげて島津征伐にかかれば勝つには勝つが、島津のほうもその国土にあって一騎々々が山々谷々にたてこもり鬼にようになって防戦するであろうし、それに遠国のことでもあって平定には相当の時間がかかる。家康の天下はまだやわらかい。そのあいだに諸方の国々が反乱せぬとはかぎらず、天下が乱れればせっかくまわってきた天下の権を、家康はその掌の間からおとさざるをえないだろう。
 島津側も家康のその弱みを知り抜いていた。
 家康は、例外として島津氏を安堵するほかなかった。

 --ここまで--

 司馬さんは言う。
 「治乱興亡八百年を通じ、その時間、空間のなかでこれほどの隆盛さを示している家というのは、世界中をさがしても日本と英国の王家をのぞしては島津氏のほかないであろう」と。