2021年11月14日日曜日

宮古島先史時代の人々は、北方にある沖縄諸島からきた縄文人だった

 

黒潮の存在という常識を踏まえると、今のフィリピンとか台湾、中国の江南あたりから来たと考えるのが普通であろうに。なぜ、常識外の「事実」となってしまうのだろう。記事と書き込みをみよう。

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2021/11/13() 宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」 「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人 宮古島市にある「南嶺の長墓遺跡」の先史時代の人骨をDNA分析したところ「100%縄文人」だったことが、マックス・プランク人類史科学研究所(ドイツ)や県内研究者などの学際的チームの研究で分かった。従来、先史時代の先島の人々は台湾やフィリピンなどの南方に由来するとされてきた(南方説)が、北側の沖縄諸島から来たことを示す研究成果。先史時代の先島は奄美・沖縄諸島と接点がないとされてきた説も覆す。英科学誌ネイチャーに掲載され、日本時間11日に発表された。同研究所のマーク・ハドソン氏が長墓遺跡で発掘した先史時代(先島では約4千~千年前)と近世(17~19世紀)の人骨を分析した。近世の人骨は現代沖縄人とほぼ同じ約20%の縄文DNAを持つが、先史時代は100%だった。先史時代の宮古島では縄文文化を示す土器などは確認されていないが、縄文ゲノムが存在したことは大きな発見だとしている。今回の学際的研究では日本語や韓国語、モンゴル語などの「トランスユーラシア言語」の起源は新石器時代の中国・西遼河地域の農耕民までさかのぼり、農耕民の移動により言語と農耕が拡散したことを示した。また、言語学や考古学の観点を合わせると、中世(グスク時代、11~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住してきたことが推定できるという。共同研究者の高宮広土鹿児島大教授は「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と解説した。

 研究に協力した宮古島市教育委員会の久貝弥嗣氏は「DNAを使って人の移動を分析したのは貴重。通説は南との関係性が考えられていたので、インパクトがある。DNAと遺跡から出ている資料をリンクさせて研究する必要がある」と話した。研究チームは先史時代の八重山の人々がどこから来たのかは今後の分析が必要だとしている。久貝氏は「宮古、八重山、沖縄の人骨などの資料を総合的に調べていけば、琉球列島全体の人の移動が見えてくるのではないか」と話した。

沖縄タイムス

<日本人の反応>

2: 台湾から竹の船で渡航する実験はもうやめだな

8: >>2台湾から先に沖縄本島に人が渡り、その後宮古島に渡ったのでは?

27: >>2弥生人は言語や農耕を持って西遼河地域から来たと分かるが縄文人はどこから来たのだ?遥か昔の南方じゃないのか

31: >>27かつての稲作農耕文明は南方のほうの中国長江流域です。したがって弥生人は、長江方面からの渡来人です。

51: >>27縄文人のルーツは古代DNAのデータが集まってきた今になっても謎のままなんだよね。無理やり祖先を指定してやればどこから何%ずつ受け継いでるという図を作れるけど、そうするとあらゆる地域からまんべんなく血を受け継いでる奇怪な混血ブラックホールになってしまう。最近の論文でも縄文人は「独自性が高い」という言い方がされるだけの場合が多い。

55:>>27 D1a2bはアンダマン諸島しかいないし、D1a2aは日本にしかいない。D1a2系がどこか大陸で出ないと分からない。D1bがフィリピンだから環太平洋にD1a系の連続性はない。だから南方由来じゃない可能性は結構ある。O,N,Cの系統に追いやられて大陸では早いタイミングで絶滅したんだろう。

3: 北から来たの

4: また新しい証拠が発掘されたら何千年も翻っちゃう学問て空しいよな

6: そうだと南方系人骨多数が発掘されてる沖縄本島石垣島と違う。本土人が宮古島に住んでたのかな、縄文人とは北東アジア系東南アジア系南米系と様々な願望憶測の日本

10: >>6石垣島から出てる人骨は氷河期が終わっていない旧石器時代のものだから今回の宮古島の人骨よりはるかに古い。旧石器時代には南方系の人類がいたが、貝塚時代には縄文人に入れ替わっていたということだろう

14: >>10万年前に先住民に代わって本土人が移住してきた説はネットウヨがさんざん捏造してきた。縄文時以前の本土人がどうやって沖縄本島や八重山に移住できるの。世界的に激しい黒潮はフィリピン沖から東シナ海-鹿児島沖-四国沖ー紀伊半島沖ー関東沖で親潮に出会い太平洋に押し出される、中世でも多くの人は太平洋で遭難。たまに欧米船に救助されたり奴隷になった、物や破壊物はアメリカ大陸や南方に流された

18: >>14黒潮に流れに合わせて移動したってのが正しいかもな。時期的に石器時代末期で氷土が溶け出した時期じゃないかな。西から東は移動出来ても逆は無理やね。

7: 縄文時代にはすでに黒潮が与那国の西を流れるようになってるから台湾とのあいだの交流は断絶してたんだろうな

15: まず、沖縄縄文人が南方からという定説は無かった。石垣島や本島の旧石器時代人が南方系で、ほぼ絶滅して沖縄縄文人の遺伝子にほとんど影響していないこともわかっている。現鹿児島の鬼界カルデラの大噴火で沖縄方面に九州縄文人が大移動したこともわかっている。つまり現在の知見を補強しただけの説。

56: >>15ふむっなるほどこれじゃん!

17: あと沖縄諸島の縄文遺跡から新潟糸魚川周辺のヒスイが見つかっている事実を踏まえてレスしよう。

25: 沖縄各地からは多数の南方系人骨や生活道具が発掘されてる。今年になって一万年前の色彩入り装飾が発掘され、うるま市では7千年前の人骨も発掘された。古代から中国は琉球付近で宝貝を採取してた、沖縄からは紀元前から中世までの中国貨幣が発掘され、中国朝鮮東南アジアの物品が大量に発掘されてる。鹿児島人が大噴火で500キロ以上手漕ぎ船で沖縄移住は妄想、大噴火全滅して半島系が住み着いたのが現在鹿児島人。

26: >>25一応、7世紀ぐらいには南回りと北回りの航路はそんざいしてるんだよな。南回りは地獄の様な航路じゃなかった。空海だっけ酷い目にあってたよな。

28: >>26 7世紀と7000年前は全然違うぞ7000年前に大陸に舟の技術があったとは思えん。縄文人は丸太から黒曜石を使って舟を作ることができた。

38: >>26地獄かどうか遣唐使でさえ半島沿岸航海で大陸へ、国家的事業準備万端でそれでも犠牲者が出てる、一般市民が沖縄の存在を知ってるかどうかわからないが都から千キロ離れた化外の島に本土人が移住捏造、ましてや宮古島の人骨は5千年前

29: それだけ早めに列島の民族が固まってたんだろ。稲作もかなり早くから始めてるし、これがどこから来たかだな半島ルートは有り得ないが。

34: 沖縄人は、西北・南九州弥生人(隼人・肥前国土蜘蛛)の末裔で、学術的に決着しつつある>琉球人の持っている全ゲノムのうち、縄文人由来の割合が2530%程度であるという。>全ゲノム研究によると、本土日本人の影響を強く受けており、華南や台湾先住民とはかなり遠いと判明した。>華北の影響を受けているが、これは本土から南下した弥生人がもたらしたものである。>沖縄には旧石器時代の遺構は多数あるものの、縄文時代の遺跡が殆どなく、空白の時代であるため、>比較的新しい時代に西北・南九州弥生人が南下してきて、現在の琉球民族を形成したと考えられる。>喜界島城久遺跡などの考古学的知見や、琉球祖語の拡散年代を鑑みるに、>琉球民族は九州から南下してきた縄文遺伝子の強い人々(琉球弥生人)でほぼ間違い無いです。>西北九州弥生人は水稲を行わず、海上交易と沿岸漁労のみの生活を行なっていたので、>結果として南西諸島への水稲到達は本土のおよそ10世紀以上も後になります。>日本本土では古墳時代半ばごろに突如として南海産貝輪の流通がストップするので、>この時期に西北九州弥生人が南西諸島に定住し始めたのだと思われます。>琉球祖語は、日琉祖語から奈良時代以前に分岐したとの説が有力である。>トマ・ペラールは、琉球祖語の保存された音素から弥生時代末期から古墳時代に分岐したのではないかとしている。>九州に在地しながら日本語と接触し強い影響を受けた後、グスク文化の一要素として琉球へ伝播した、としている。

■ 土井ヶ浜人類学博物館 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜

PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ

35: 台湾→沖縄のフローが学術的に否定されたので、これで弥生人の南方渡来説は完全に無きものとなった。琉球大「台湾原住民と琉球民族の遺伝的関係はほとんどない」沖縄は農耕社会が確立されたグスク時代(AD1000-1100)に人口が一気に増えるので、そのときの影響が現代沖縄人にとっていちばん大きいと思われる。 日本列島は、いつ農耕を受容するかで集団の姿形が決まる。九州、畿内、東日本、沖縄、そして最後まで農耕を受容しなかった北海道(アイヌモシリ)ではやはり歴史が違っている。

39: 琉球=沖縄人の起源と成立 明治期、東京帝国大学の教師を勤めたチェンパレンは琉球住民を調査して、体質的にも言語的にも日本人だと述べた。服部四郎が、言語年代学という新しい分析手法を使いながら、琉球語と日本語は紀元後3世紀~4世紀に分離したと提起。弥生時代から古墳時代の初期ころに、九州あたりから沖縄本島中南部あたりに原住民に勝る数の集団の渡来があり、琉球語が成立したのではないかとした。巷川人と貝塚時代との間に1万年の空白があること、その間を埋める人骨が発見されないと連続性は証明できないが、港川人と貝塚時代人には形質的な共通性がある。貝塚時代前期の人骨は少なくよくは分からないが、貝塚時代後期(弥生~平安時代)の琉球人の特徴はわかってきている。大変小柄で、頭の形が極端な短頭で、顔は寸詰まりである。縄文人と似てはいるが、顔がより平坦で顔も小さし体格も小柄なので貝塚時代人は縄文人そのものとは言いがたい。10世紀にはじまるグスク文化の形成期には、日本文化の影響の下に、奄美から八重山に至る地域が一つの琉球文化圏にまとまる。それ以前は、奄美・沖縄の貝塚文化圏と宮古・八重山の先島先史文化圏という二つの文化圏に分かれており、お互いにほとんど交流がない時代が数千年も続いていた。13世紀には大型の城塞的グスクを築くグスク時代に入り、琉球王国成立への道を歩みはじめる。本土から商人や鍛治職人、陶工などさまざまな人たちが渡来し、渡来人の形質を受け継いだ人たちを中心に人口が増大し、在来の貝塚人や先島先史人を圧倒していった。頭が長頭になり、顔も面長になる。身長も高くなって本土人と変わらなくなる。その一方で、貝塚時代人の特徴も一部は受け継がれている。この傾向は先島でも見られる。文化的経済的転換とともに人の形質も転換し、本土人と変わらない沖縄人が成立したのである。

43: >>39琉球13世紀ごろの城は巨大な城壁が垂直近く曲線が囲み石造アーチ門が飾り美しい城で九州文化の香りは全くない、明らかに大陸の影響。当時九州人が琉球に築城技術もたらした、うぬぼれ妄想が恥ずかしい。大陸からは三線サツマイモ、コメ、紅型、他大量、15世紀だけで延べ琉球人人口をはるかに超える人が海外に渡航してたまた渡来してた。

48: >>43「ボクの沖縄祖先は南方系で東南アジアからキタキタ!」(笑)

42: 真のナイチャーは今の沖縄民じゃなかったのか

・本スレで「黒潮」がやたら言われているが、寒冷期は、宗谷海峡も間宮海峡も陸続きで、津軽海峡は川のように細く、対馬海峡もそう、日本海は内海化が激しく、渤海湾も黄海も陸地が太平洋にせり出していて、海流の流れは今とは全く違う。

--ここまで--

まだまだ情報が不足しているのだろうなぁ。もっと研究が進むことを願いたい。