▲この映画、売れないだろうなぁ、と思う。
表題では感想となっているが、正直、書けない。どう書けばいいのか分からないからだ。
この映画、50億円で8年間、かかったという。
どの部分にそんなお金がかかったんだ? という感じなのだ。
ちょつと悪く書きすぎかな。
ちょいと頭を冷やして、箇条書きでボチボチ書き始めよう。
あ、竹取物語というお伽話を、長編アニメにした—ということだ。
筋に手が加えられているということはない。
ただ、デティルを積み重ねて積み重ねて2時間近くの映画にした—ということだろう。
い、上で8年間という期間を書いた。
でも、これは高畑さんという監督のやり方というものと関連がありそうだな。
宮崎さんは、4コママンガのようなものを作って、画像とあら筋を決めていた。
対して、この高畑さんは自分でイメージをつくることができないのだろう。
で。
他者にイメージというか具体的な絵を描かせて、自分の感性に合致するかどうか—というやり方をするのだろう。
だから。
二人の人に描かせて、後からの方がより自分のもつイメージに近いとなれば、「やりなおし」ということが多かったのであろう。
ついでにいえば、高畑さんのアニメは、宮崎さんのアニメに比較して、話の展開のキレが悪いような気がする。それも、「やり方の違い」によるものと思える。
ついでにいえば、高畑さんのアニメは、宮崎さんのアニメに比較して、話の展開のキレが悪いような気がする。それも、「やり方の違い」によるものと思える。
う、上で書いたように感想が書けなかった。そこで他人はどう感じたんだ? と他者の感想を検索してみてみた。
その内、筆者の感想になんとなく似ているものがあった。それをご紹介したい。
--ここから--
『かぐや姫の物語』は、
原作である「竹取物語」に忠実であり、逸脱したものではない。
現代的な解釈があるわけでも、斬新なアレンジがあるわけでもない。
ならば何故、
今、このよーな作品を完成させたのか。
まず、『かぐや姫の物語』には、高畑勲監督個人の投影は、一切ない。
ジブリアニメ的な特徴すら乏しく、物語は昔話である。
しかし、圧倒的な絵の力、動画はジブリだからこそ描けたもので、昔話を語る、魅せる力は、高畑勲の非凡な演出によるものだ。
完成までに8年もの時間と、莫大な制作費が費やされた。
監督やスタッフにも高齢な方が多く、安易に次作を望む状況ですらない。
そうして生まれた作品とは、何か。
そうして生まれた作品とは、何か。
遺産である。
誰かが、
誰にでもわかる、最高水準のアニメーションを、日本だけではなく、世界にも向けて作らなければならない。遺さねばならない。
そんな姿なきエゴを命題として、この作品は生まれたのだと、感じられた。
灯火のような、時代の風化にも耐えうるアニメーションを作る、と。
そしていつか、
この作品に触れることで、新たな高畑勲や宮崎駿が生まれることを、望むかのように。
--ここまで--
エンドロールで、声優の名前をみてびっくりした。錚々たる名前が並んでいたからだ。
これだけの俳優を使い、8年、50億円という巨費を投じてつくった映画がこれなのか。
上でも触れたが、50億円というお金を回収することはおそらくできまい。
ただ、絵は丁寧に描かれている。
上で紹介した感想のごとく、筆者も高畑さんの遺産(最高水準のアニメとはこのようなものであるというアピール)だと解すれば、多少は納得がいく。