▲小泉さんは、若い頃、普通に働いていたことがあったっけ。
少なくとも、現場で汗をかいて・泥まみれになって働いた経験があるまい。<そこらに、現場感覚のない--頭だけででっちあげた理屈を振り回しているという印象をもつ>
小泉さんの主張もまぁ、そんな意見があってもいい—ぐらいのことかな。
核心はなにか。
それは、今の日常の生活を守る—ということだ。
朝起きて、食事の準備ができて、電車が普通通りに動いて、会社では機械がうごき、事務所ではpcが普通通りに立ち上がる—そんな生活を維持するということなのだ。
「原発に代替するエネルギー源を見つけ、実用化するため」には、そういう普通通りの生活が継続しないとできない—ということだ。
科学・技術に一足飛びということはない。
毎日、毎日、少しづつ少しづつ前に進んでいくものだ。
地道といえば、地道—でも、それに耐えることができるものだけが「本当の技術者であり、科学者」なのだ。
因みに、中国人・韓国人がなぜノーベル賞を受賞できないか—といえば、この「地道さに耐える」ということができる人間が圧倒的に少ない—のだ。
すぐに結果を求める。すぐに栄誉を欲しがる。---そのために、ウソ、ゴマカシ、捏造、偽造--という手段に走るのだ。
いや、話がとこかへいった。
上でふれたように、日常の生活を維持するためには、ある絶対量のエネルギーが必要だ。
それだけのエネルギーを供給する方法が、現在のところ、原発しかない—ということだ。
そのところを押さえていないと、話が上滑りする。
小泉さんの話の弱点は、この「日常の生活を維持するために必要なエネルギーをどこから供給するか」--という点であろう。
以下、新聞から抜粋
脱原発を訴えている小泉元首相が、講演し、「私の『原発ゼロ』発言を無責任という主張は、そのまま
原発必要論者に言い返したい」と述べた。
安倍晋三首相が24日のテレビ番組で「今の段階で(原発)ゼロを約束するのは無責任」
と発言したことに、真っ向から反論した格好だ。
小泉氏は「原発必要論者は(使用済み核燃料の)最終処分場をつくることが政治の責任だと主張するが、できると思っている方が
無責任で楽観的」と政府の方針を批判。
「福島の事故の前から、住民の反対で最終処分場は日本に一つもできなかった。
私の発言を
無責任というのは、住民の反対を押し切ってでも、政治がやれということと同じ。日本は独裁国家じゃない」と厳しい口調で語った。
自身の「原発ゼロ」発言をめぐる報道についても「無視できなくなった。以前と変わらない話をしているが、非常に激しくなってきた」と指摘した。
また、小泉氏は、東京電力福島第1原発事故を踏まえ、原発はコストが高いとあらためて指摘。
「政府に原発ゼロ方針に賛成する
専門家機関をつくり、原発なき後の地域対策や代替エネルギーの活用を考えるべきだ」と述べ、首相に方針転換を求めた。
▲補足、感想など
どのあたりから。
冒頭でもふれた。
科学、技術の進歩に一足飛びということはない。
技術者というものは、地道さに耐え、毎日毎日すこづつ前進するものだ。
原発に代替するエネルギー源を見つけ、実用化するためには、もう20-30年という時間が必要だ。
脱原発だとか、原発ゼロとかいう判断については、この原発に代替するエネルギー源が実用化された時点で、やっと「原発ゼロ」するか否かを決めるタイミングなのだ。
そこまでは、原発に依存せざるを得ない。
なんどでも言いたい。
どこからエネルギーをもってくるか—ということは、一国家の命運を左右するほどのものだ。
小泉さんのような意見があっても構わないが、上でふれたような「基本的な部分」を押さえておかないと、軽挙妄動してドイツの轍を踏むことになる。
頭デッカチなドイツ・メルケルさんの二の舞いにはなるまいぞ。