▲清須会議という映画をみた。
面白い—と思った。
でも、これは。
この歴史に残る一事件の、場所、登場人物のそれぞれの関係、その時間の流れの中でもつ意味あいにかっちりとピントがあった映画だなぁ。
喜劇チックに表現はされているが、この「清須会議」の歴史的意味をよく理解していないとできない—そういう映画だ。
以下、箇条書きに、あら筋などにも触れながら、感想を述べたい。
◇なにか、日本の映画って難しくなったなぁ。アメリカのハリウッドなどのもっている方向性と大きく乖離をしてきた。
それは、日本の映画が「観客として日本人しか想定していない」--ということだ。
先日の宮崎さんの「風立ちぬ」でもそうだ。
観客として想定しているのは日本人のみなのだ。日本人に分かってもらえばいい。いや、日本人しか分からない--そういう映画だ。
そのあたり、アメリカのハリウッドのつくる映画は、「全世界の観客」というものを想定している。
だから。
必要以上に、想定する観客の知的レベルを上げることができない。そこで、意味がどうこうというより、見かけが派手な、とにもかくにもびっくりさせてやろう—という傾向となる。
◇この映画を見て、秀吉賢い、柴田勝家はアホ—とか感じるかもしれない。
まぁ、そうと言えなくもない。
これは、本能寺の変という「織田信長の死」の後始末をどうするか—という会議であり、大きな目でみれば、戦国時代末期の「天下統一」までの坂道を登る途中の「主役の交代」なのだ。
下克上の実力時代であり、「実力の無い」領主を頂くことは、自分の破滅を意味した—そういう時代における、新領主(指導者)を選択する闘争でもある。
◇織田家には、お市の方という絶世の美女がいた。信長の妹にあたる。
最初、滋賀の浅井長政に嫁ぎ、男一人、女三人の子供を得た。しかし、後、浅井長政は越前の朝倉とともに織田信長に背き、小谷城を攻められたとき、このお市の方と女三人の子供だけが助けられた。
柴田勝家も羽柴秀吉もこのお市の方への淡い恋心のようなものがあったのだろうな。
◇この映画をみて、なるほど、織田信長の後を継ぐ能力のある人間は、羽柴秀吉しかいなかったのだな—と改めて思う。
秀吉の運のつき始めは、備中、高松城の水攻めの最中に、この本能寺の変の知らせを毛利家へ伝えようとした明智光秀からの密使を捉えたことにある。
以後、中国大返し → 天王山の戦い →明智光秀の死 →清須会議 と続く。
◇狡兎死して走狗煮らる—という中国の諺がある。
乱世の梟雄 → 治世の雄 へ切り替わるタイミングであったということであろう。
羽柴秀吉という人が、治世の雄であるかどうかはわかりづらいが、でも、少なくとも織田信長よりは、「治世」といういわば、戦国という時代が終わりかけの時代が求めていた「人」であろう。
その切り替わりをこの「清須会議」という話し合いの中でなされた—というのは、いかにも日本的ではある--と思える。
◇まとめ。
柴田勝家とは、この後、争い、秀吉が滅ぼしてしまう。<お市の方もこの時、柴田勝家と一緒に亡くなる>
丹羽長秀、池田恒興はそれぞれ永らえる。池田恒興の次男が岡山藩始祖の池田輝久だ。
柴田勝家は、劇中、次の時代にオレの居場所はないのか—と秀吉に問う。対して、秀吉は「ありません」と答える。勝家はまた答える「そうか、あると思っていたのだがなぁ」と。
---つまり、これだな。
己の才覚・実力をよく知って、時代がもとめる「パーツ」足りうるのかどうか—その見極めと諦観--。
男の一生というものを考える上で、かかせぬ視点だなぁ。