2013年10月21日月曜日

日本人を叩けばお金がとれる—と在日朝鮮系の人間達-その3。

▲戦後、坂口安吾氏が、「一戦を辞せず—などと言った人間は皆、キツネ憑きなのさ」--とかいった--と。
 キツネ憑きねぇ。

 その通りだろうな。キツネ憑きくらいでなくて戦争ができるものか。
 でも—と思う。

 この阪口さんの言葉は、終戦後しばらくしてほとぼりが冷めた頃の言いであろう。
 戦争で、「一億火の玉だ」と言っていた頃には、考えもしないし、言うきもなかったろう。

 こういう文章をみると、日本人は「負け慣れ」していないなぁ、と感じる。
 あぁ、日本は対外国戦では660年頃の白村江の戦いと太平洋戦争以外では、敗けたことがなかったか。
 当たり前だな。

 日本という国は、19世紀後半に、英国の産業革命に約100年遅れて、明治維新という形でリセットして、再出発をした。
 この100年遅れというハンデが、どこどこまでもついて回って、帝国主義には後から参入する形となり、20世紀半ばに100年先を進んだ英米蘭などと争いとなったものだ。

 日本が100年遅れだというハンデを抱えて、以後つっぱしたものだから、まぁ、100年先を進む国といざこざを起こす状況となるのはやむを得なかったのだろうな。
 また、人種差別ということでも、日本人は差別されていたし、そんなことも気に入らないことだったのだろう。
 この摩擦が、結局、戦争へ突入した原因だろう。
 戦争に善も悪もあるものか。
 どうしても、気に入らないから殴りかかっただけだ。

 そのあたり。
 今の中国人の振る舞いをみて分かるだろう。
 英国の産業革命に約200年遅れて、中国はトウ小平氏の改革開放政策というもので出発した。丁度、日本から100年遅れだ。
 今、日本から中国の振る舞いをみて、「コイツ、粗雑な乱暴者・ヤクザだな」とか感じるであろう。
 同じことを、アメリカ・イギリスは、20世紀の半ば頃に日本に対して思ったはずだ。

 こうして、日本とアメリカの間で戦争が始まったのだ。
 a級戦犯とは、100年前を進んでいる「白人様」へ逆らったという罪?だ。
 日本人としては、どうしてもハラが立って、逆らわずにはおられなかったということだろうな。

 まぁ、敗けたことで、今度は負けないぞ—と考えればいいことなのだが。
 この日本人の感覚を逆に利用してやろう、ついでの貶めてやろう—と考える人間が存在する。
 それが、日本在住の朝鮮系の人間達だ。

 日本の新聞テレビの業界を牛耳っていて、日本人を叩いてやろう—と画策している。
 それはなんとか九条の会などという存在だ。

 こんな在日韓国人、朝鮮系の人間の策動に騙されるな。ミスリードされるな。
 日本人は覚醒せよ。

 以下、新聞から抜粋。

 戦後の混乱期、「堕落論」で人気作家となった坂口安吾は、戦争放棄の憲法九条を高く評価していました。
 それは今の時代状況 にも通じる明察です。
 坂口安吾は、明治三十九年、新潟市に生まれました。
 東洋大学卒業後、作家の道を歩み。世評的には不遇の時代が続きます。
 一変するのは戦後です。
 昭和二十一年、「新潮」に掲載された「堕落論」でした。

■本質見抜く洞察力

 <戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。
 人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。
 義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、 防ぐことによって人を救うことはできない。
 人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない>

 国家のために死ぬことは当然、日本人なら清く正しく生きなければならない、と教え込まれていた当時の人々にとって、堕落こそ 人間救済の道という逆説的な省察は衝撃的でもありました。
 本質を見抜く洞察力に貫かれたこの随筆を機に一躍、人気作家となります。
 太平洋戦争の開戦時、安吾は三十五歳。
 年齢故に召集もされず。
 安吾の 戦場は遠い戦地ではなく、幾度も空襲に見舞われ、降り注ぐ爆弾や焼夷弾から逃げ惑った東京でした。
 
 四三(同十八)年、海軍の山本五十六元帥の訃報 に接し、こう書き記しています。

■根源から問い直す

 <実際の戦果ほど偉大なる宣伝力はなく、又、これのみが決戦の鍵だ。飛行機があれば戦争に勝つ。それならば、 ただガムシャラに飛行機をつくれ。全てを犠牲に飛行機をつくれ。さうして実際の戦果をあげる。ただ、戦果、それのみが勝つ道、 全部である>(現代文学「巻頭随筆」)

 戦争に勝つには、精神力ではなく軍事力、国民を奮い立たせるのは、うその大本営発表ではなく真の戦果、というわけです。
 虚構ではなく実質。今となっては当然ですが、色あせない洞察力こそが、今なお安吾作品が読み継がれて
いる理由でしょう。

 「根源から問い直す精神」。評論家のoさんは、安吾の魅力をこう書き残しています。
 堕落論の約半年後、日本国憲法が公布されます。主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を三大原則とする新しい憲法です。

 国際紛争を解決する手段としての戦争と、陸海空その他 の戦力を放棄した九条でした。
 <私は敗戦後の日本に、二つの優秀なことがあったと思う。一つは農地の解放で、一つは戦争抛棄(ほうき)という新憲法の一項目だ><小ッポケな自衛権など、全然無用の長物だ。与えられた戦争抛棄を意識的に活用するのが、他のいかなる方法よりも利口だ>(文芸春秋「安吾巷談」)

 <軍備をととのえ、敵なる者と一戦を辞せずの考えに憑かれている国という国がみんな滑稽なのさ。彼らはみんなキツネ憑き なのさ><ともかく憲法によって軍備も戦争も捨てたというのは日本だけだということ、そしてその憲法が人から与えられ強いられた ものであるという面子に拘泥さえしなければどの国よりも先にキツネを落す機会にめぐまれているのも日本だけだという ことは確かであろう>(文学界「もう軍備はいらない」)

 東西冷戦に突入し、核戦争の恐怖が覆っていた時代です。軍備増強より、九条の精神を生かす方が現実的との指摘は、古びる どころか、今なお新鮮さをもって私たちに進むべき道を教えています。

■改憲潮流の時代に

 安吾は五五(同三十)年に亡くなります。四十八歳でした。
この年の十一月に結党された自民党は今、安倍晋三首相の下、党是である 憲法改正を目指しています。

 自衛隊を「国防軍」に改組し、集団的自衛権を行使できるようにする内容です。首相は世界の平和と安定に積極的に貢献する「積極的 平和主義」も掲げ始めました。

 しかし、ここで言う「平和」に実質はあるのか。軍拡競争をあおったり、米国の誤った戦争に加担することが、本当にないのか。
 本質を見抜き、根源から問い直す。安吾の精神が今ほど必要とされる時代はありません。


▲補足、感想など

 ケッ。
 日本人のフリをした中日新聞の在日の朝鮮系の人間に、「戦争放棄」を云々されたくはない。
 汚らしい精神で、日本の「神風特攻隊」とか、「戦争放棄」だとか「憲法九条」に触れるな。言及するな。
 日本人の精神が汚れる。

 筆者は、団塊の世代だ。戦争放棄の精神については、小学生の頃から、繰り返し教えられた。

 でも、と思う。
 現在、2013年の今、世界で、「戦争放棄」をうたっている国が、日本以外どこにあるか—それを考えてもみよ。
 つまり、冒頭でふれたように、戦争は善悪ではない。どうしても我慢ができなくなってなぐりかかるものなのだ。

 日本人は、今、この憲法九条というもので、自らの手足を縛った状況となっている。
 それをいいことに、それにつけこんで中国・韓国が強欲な無礼な言動を繰り返しているのだ。

 そして、上で掲げたような記事を、日本に在住する朝鮮系の記者達が、韓国・中国の意を受けて、「日本人が自ら手足を縛った状況を継続させよう」と策謀しているのだ。

 もう、いい加減、日本人は気付けよ。
 こんな記事に騙されるなよ。

 日本にいる朝鮮系の人間達のミスリードに躍らされるなよ。