2019年12月18日水曜日

ひきこもりは、基本的に家庭内(親子関係)の問題だ。ただ、数が多すぎて社会に影響を及ぼしてしまった


ひきこもりの記事を読むと、いつも悲しくなる。
 なにか暗い記事が多いからだろうな。
 こうして「ひきこもり」から脱出した、回復したという記事を殆どみない。

 それだけ、回復したという例が乏しいのだろう。
 ただ。
 表題のとおり、本来的に家庭内の問題だ。その家庭が主体となって、どう解決すべきか—動くしかない。
 考えも見よ。
 ひきこもりを収容する施設を作ってどうするのだ?
 他人の目が恐ろしいと思っている人間をどうすればいいのだ。

 まず、記事から抜粋。

 40歳超の「ひきこもり」見放す社会の強烈な歪み80代の親が50代の子を養う「8050問題」の現実池上 正樹 : ジャーナリスト 2019/12/18

制度の狭間に取り残されている現実もある
8050問題」とは、80代の親が収入のない50代の子どもの生活を支え、行き詰まってしまっている世帯のことを指す。その背景には、長期高年齢化しているひきこもり状態にある人たちとその家族の孤立がある。
行政の支援が届かないまま、親が先に死んでしまい、そのまま子どもも死んでしまう事件や、親が先に死んでしまい、どうすることもできない子が親の死体を放置して逮捕されてしまう事件などが全国で相次いでいる。
8050問題」に直面する当事者たちは、なぜ「ひきこもる」という選択肢を選ばざるをえなかったのか。そして、そんな社会に生きる私たちは今、何を問われているのか――。拙者『ルポ「8050問題」高齢親子“ひきこもり死”の現場から』より一部抜粋し、現場の声をリポートする。

20181月、北海道札幌市のアパートの1室で、82歳の母親とひきこもる52歳の娘の親子の遺体が発見された。
同年35日付の北海道新聞によると、死因は2人とも「低栄養状態による低体温症」で16日、検針に来たガス業者が異変に気づき、アパートの住民が室内に入ったという。2人は、それぞれ飢えと寒さによる衰弱のため、2017年の12月末までに亡くなったと見られている。娘は、長年ひきこもり状態にあったという。
同紙の記事によれば、母親が亡くなったとされる時期は「201712月中旬」で、娘は通報することなく母の遺体と同居。後を追うように同年の「年末」に息を引き取った。
冷蔵庫は「空」だったが、室内には「現金9万円が残されていた」という。

親子共倒れから見えてくる支援制度の問題
母親が、このアパートに入居した1990年当時、すでに世帯の収入は「年金だけ」の生活で、「生活保護や福祉サービスは受けていなかった」。娘は、学校を卒業してから就職したものの、「人間関係に悩んで退職し、ひきこもり状態」になったという。いわば、就労経験者という典型的な「中高年ひきこもり」者の背景だ。
「障害者手帳や病院(の診察券)などは、見つかっていない」という。ひきこもる人の多くは、「障害があるわけではない」などと診断を受けたにもかかわらず、その親も「うちの子は障害者ではない」などと否定したり隠したりする傾向がある。こうした障害認定を受けていないために、支援の制度に乗ることができない問題もある。

この事例でいえば、世帯には年金収入があり、高齢の親も一人暮らしではなく「働き盛りの世代の子」と同居もしていた。対応する法律や制度がなく、熱意のある担当者でない限り、「生活上、問題がない」とみなされても不思議ではない。まさに制度の狭間で、家族全体が孤立し、親子共倒れにより死に至ったのかもしれない。
「親子は近所づきあいを避け、周囲に悩みを漏らすこともなかった」

母親と交流のあった女性が、数年前から生活保護を申請するようアドバイスを続けたものの、母親は「他人に頼りたくない」からとかたくなに拒んだ。その結果、母親が先に亡くなり、娘もそのまま、誰かに助けを求めることも、外に出て食料を買うこともなく、亡くなった──。
──なぜ、母娘は周囲に「助けて」と声をあげることができなかったのか?
──なぜ、母娘が最悪の状態で発見されるまで、誰も手を差し伸べることができなかったのか?

「ひきこもり状態」の4064歳が推計61万人
今、全国でこの札幌の親子と同じように、親子共倒れの悲劇に追い込まれるケースが多発している。
当該家族が置かれた状況や背景はさまざまだが、いずれにせよ、高齢のひきこもり状態の子の生活を、高齢の家族が支えている本質的なメカニズムは変わらない。
周囲から見ると、現状を切り取れば主に経済的観点から生活に問題がないと判断されやすく、支援の対象にはなりにくい。ところが、見落とされがちなのは、将来の予防的な観点だ。今は生活に問題がないように見えても、生活を支えてきた高齢の家族に万一のことがあったとき、たちまち生活は困窮しかねない。
たとえお金が残されていたとしても、本人に生きる希望や意欲がなければ、生きるために動き出そうというエネルギーも湧かなくなる。まさに、緩やかな死へと向かう、ひきこもらされた人たちの気持ちが見て取れる。

こうした現実を裏付けるかのように、2019329日、内閣府が中高年ひきこもり実態調査で、衝撃的な数字を公表した。40歳以上のひきこもり状態の人が全国にどのくらい存在しているのかを推計した、国による初めてのエビデンスである。
内閣府によれば、4064歳の「ひきこもり中高年者」の推計は約613000人にも上る。ひきこもり状態になったキッカケは「退職したこと」が最も多く、雇用環境の問題が要因になっていることがわかる。年齢も、「40歳以上になってから」が約57%と半数以上を占め、全年齢層に大きな偏りなく分布している。つまり、どの年代からでも誰もがひきこもり状態になる可能性があることを示している。
筆者のもとには、支援の狭間に取り残されて孤立してしまった当事者や家族たちから、SOSの声が数多く寄せられる。

北海道に住む田辺さんご夫婦もそのうちの1例だ。田辺和義さん(仮名)は現在85歳、妻の文子さん(仮名)は3つ下の82歳で、息子の紀行さん(仮名)は55歳。まさに「8050問題」ドンピシャの世代だ。1964年生まれの紀行さんは、2006年の42歳の頃から、10年以上ひきこもり状態にある。
両親は、北海道に2人で暮らしているが、紀行さんは働いていた頃に購入した東京のマンションに1人で暮らしている。そのため、両親が北海道からたびたび上京して、紀行さんの状態を見守っている。
紀行さんは、北海道で生まれ育ち、地元の進学高校を卒業。その後上京し、有名私立大学に入学。一人暮らしをしながら、4年で卒業した。就職先は誰もが名前を耳にしたことがある有名な企業だった。
就職をしてからもしばらくは順風満帆というか、勤務態度もまじめで、とくに問題なく働いていた。しかし、40歳にさしかかる一歩手前の39歳頃から、ときどき仕事を休むようになる。とくに月曜日になると、身体が動かなくなり、休むことが多かった。
当時の紀行さんの仕事は、文字どおりの超過勤務。朝早くから深夜まで仕事に追われ、残業することもしばしばだった。
「頼まれると断れない」から終わるまで仕事を続けてしまう。「困っていても助けを求められない」から1人で抱え込んでしまう──この特性は、まさに「ひきこもり」状態になる人に共通する傾向でもある。41歳のとき、精神科を受診。「うつ病」と診断され、ひとまず休職することになった。
マンションのローンと生活費は両親が負担
こうして休職をしたものの、紀行さんはほとんど寝たきりの状態になってしまい、身の回りのこともできなくなってしまっていた。
そこで、和義さんは文子さんとともに上京。紀行さんの生活の面倒を見ていた。その後、休職期間中ではあったものの、紀行さんは会社を退職することになった。
紀行さんはその後、ほぼひきこもり状態のまま、一人暮らしを続けている。マンションのローンと生活費は両親が支払っている。
現在は両親も健在のため、どうにか経済的に支えることができているが、2人とも80歳を超え、体力的にも金銭的にも限界がきているという。

そこで、和義さんは、紀行さんの住む東京にある区役所に相談に訪れた。生活費や身の回りのことなどを相談したくて、区役所に行きました」
こうしてせっかく和義さんが相談に行ったのに、窓口の担当者から「39歳以下でなければ対応できない」と断られたという。
39歳以下でなければ対応できない、と。生活保護についても、今は私どもが支えられていて、自分名義のマンションもあるんだから、無理だと……。現状ではどうすることもできないと、そういうことでした」
和義さんは、役所の対応に途方に暮れてしまった。
「紀行は今、ちょっと買い物に行くことなど、身の回りのこともできてはいます。ただ、私どもが死んで収入がなくなったらどうするのか……。マンションのローンをたとえ払い終わっても、固定資産税とかそういうものは払えないでしょうし……。この先どうしようと不安になって、時間ばかりが過ぎていくような気がします」

社会構造の歪みが原因
紀行さんのように制度の狭間に取り残され、途方にくれている家族は全国にたくさんいる。
そもそも「ひきこもり」は長い間、不登校の延長のような捉え方をされており、「親のしつけ」や「甘え」「若者特有の心理」を発端とする問題だと言われてきた。そのため行政がひきこもり支援の対象としてきたのが「1539歳」だったのだ。
だが、これまでも述べてきたように、人は何歳からでもひきこもり状態になりうる。そして筆者は、これまで、数多くのひきこもる当事者たちの声を聞くにつれ、ひきこもりという行為は、個人や家族に要因や責任があるのではなく、「社会構造の歪み」が生み出している問題だと考えるようになった。

1度レールから外れると、なかなか元には戻れず、何をするにしても、入り口に立ちはだかるのは、履歴書の経歴という障壁だ。
雇用環境も大きく変化し、コスト競争などが激しくなって、非正規や派遣の数も増大。サービス残業などの超過勤務も強いられる。そのうえ、日本には「自己責任」という考え方が根付いていて、「社会に迷惑をかけてはいけない」「他人に迷惑をかけてまで生きていてはいけない」といった自己を犠牲にすることが美徳とされるような社会的風潮や価値観が蔓延している──。
そんな個人の尊重されない歪んだ社会で働いたり、生活の軸を置いたりしてしまえば、自分自身が壊れてしまう。そうした危機感から、自分を守るための防衛反応として、ひきこもらざるをえない選択をさせられている人が実に多いのだ。

「ひきこもり」という言葉が世間に浸透していった当時からそんな現状があったにもかかわらず、多くの人が制度の狭間に取り残されて、なんの支援にもつなげることができなかった。その結果として、まますます孤立し、ひきこもりが長期化したのである。それが今「8050問題」として社会に顕在化してきたのである。

補足、感想など

 どうも、最後のあたりの文章は気に入らない。
 なにもかも、社会がどうたら—というものではない。ひきこもりは、基本的に家庭内、親子間の問題だ。
 自己責任というのは、素晴らしい考え方だと思うし、日本人としての「矜持」そのものだ。

 筆者なら、ひきこもりへの解決策は2つだ。
 1つ目は、戸塚さんのやり方だ。

 -ここから-

【戸塚宏氏は「体罰は教育だ」と言う】
2016.07.16

いまや体罰は「絶対悪」の時代である。しかし、戸塚ヨットスクール校長で、過去の指導中に生徒が死亡したことで非難を浴びた 戸塚宏氏は、今でも体罰肯定論者である。その真意はどこにあるのか。ノンフィクションライターの中村計氏が訊いた。

 * * *
 今も、戸塚ヨットスクールは存在している。100人もの訓練生を預かっていた時代もあったが、今はわずか8人だ。
昔は中学生ぐらいが中心だったが、今はいちばん下が高校生で、いちばん上は40歳代である。

50歳過ぎてから親に連れてこられるやつもいるよ。マスコミのせいよ。戸塚ヨットスクールに入れるような親は鬼だっていう書き方をするでしょう。
だから、精神科やらフリースクールに行って、でも何ともならなくて、最後の手段としてうちにくる。その頃には、40歳とか50歳になってる」

 5年前から、3歳から12歳までの幼児を対象に一週間前後の合宿「戸塚ジュニアヨットスクール」をほぼ毎月、開催するようになった。

「結局、教育は幼児からやらんと手遅れなんだということがようわかった。幼児のときにきっちりやれば、あとは自分で自分を伸ばすことができる」

──著書には、体罰は肯定しているけど、事件後は封印した、とありました。

「封印なんかしてないよ。違法じゃないんやから。そんな法律はない。体罰禁止は学校教育法の中にあるだけで、民法の中にはないんや。
体罰を使った方が、この子たちはうまくなるということを知っとったもんで、うちは学校法人にせず株式会社にしたんや。でも、そうしたらマスコミは株式会社が教育をやるのはけしからんと言う」

──著書には、もう手は出していないと書かれていましたが。

「してない、と言っとかないと」

──今回の記事で、今の発言を書いてもいいんですか。

「いいですよ」

──子どもを預けに来た親には体罰を行うこともありますと言う?

「親に対しては一切口を出すなって言う。うちの教育者たちはプロ中のプロやぞいう自負がありますから。
うちのスタッフに比べたら、ほかの教育者なんてみんな素人よ。親は口を出さない。これが条件。口を出すんだったら、最初から預からない」
http://www.news-postseven.com/archives/20160716_428401.html?PAGE=2

 狂信的な言葉に聞こえる。ただ、戸塚がここまで言う背景を顧みて辿り着くのは、私がかつて取材した強豪高校野球部監督の言葉だ。その高校は一昔前まで、素行が悪く、引き受け手のない中学生が最後に辿り着く場所でもあった。しかし不祥事があれば、そうした事情を考慮されることもなく、あらゆる高校と同等に世間から叩かれる。

「うちの学校の子と、進学校の子を一緒にしたらあかんわ。うちで煙草なんてかわいいもんやで。今の風潮だと、問題を起こす子は取らないのがいちばん楽。でも、そうしたら、どこにも行けん子はどうしたらええんや?」

 戸塚も「捨てる方が冷たい」と言う。戸塚ヨットスクールは原則的に、精神疾患者、知的障害者、自閉症の子以外にはすべて門戸を開いている。ただし、戸塚は今の時代に精神疾患と診断された子どもの8割が誤診だと言い切る。

学校が手に負えんやつに、みんな病名を与える。発達障害の子どもって、ものすごく増えてるじゃない。あんなのインチキや。そう言えば学校の責任じゃなくなるからでしょ。昔から、自分の子どもを精神疾患だと言われ、納得できない親がうちに連れてくることがよくあった。やってみると、10人中8人は治る。昔はそういう子どもを発達障害なんて言わんやって

 秩序を守れない子どもたちへのレッテル貼りが進むと同時に、教育現場では「個性」が尊重される時代だという。

「ニートまで個性だなんて言い出すから、日本の教育がおかしくなった。中学生の女の子が売春して、私の権利でしょと言う。おかしいよね。今の教育者は、子どもに恥をかかしちゃいけないって言うけど、悪いことをしたら引っぱたかれる。それがトラウマとなって悪いことをしなくなる。これが人間のあり方よ」

 個人的な体験になるが、私も学生時代、運動部の監督から体罰を受けたことがある。自分は動物じゃない、と思った。どんな些細な体罰であれ、私は反対の立場である。
 ただ、戸塚の意見を暴論だと簡単に捨てることができないのも正直な感想である。万能薬が存在しないように、ありとあらゆる子どもに通用する教育論などありはしない。そして効く薬に害があるように、効果的な教育には負の側面もあるのだろう。

 ごく少数だが、「体罰」というコミュニケーションが必要な子どももいるのかもしれない。

 体罰を容認するかしないは別として、教育を考えるとき「体罰=悪」と何でもかんでも一緒くたにするのではなく、そう思いを巡らせることができる小さなスペースぐらいは残して置いてもいいのではないか。

 -ここまで-

 もう、一つは、「中村天風」さんだ。
 中村天風さんの語録をみようか。

 -ここから-

たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。

たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。

喜びのないところには、本当の生きがいのある人生というものがない。

どんな場合にも「こまった」「弱った」「情けない」「腹がたつ」「助けてくれ」なんていう消極的な言葉を、絶対に口にしないことです。

人間が生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。

人生は生かされてるんじゃない。生きる人生でなきゃいけない。

もし、知識を磨いて人間が幸せになれるなら、学問を一生懸命した人はみんな幸福になれそうなもんだ。そして学問をしない人はみんな不幸になるはずだ。しかし、そうなってはいないでしょう。

やれ運命がつまらないの、人生がつまらないのって人は、その考え方がつまらない。

人の落ち度は、許すより忘れてしまえ。

力を入れることに重点を置かずに、力を働かすことに重点を置く。

怒る者よりも怒られる者のほうが気は楽だって。反対に言えば、怒られる者よりも、怒る者のほうが苦しいんですよ。

人生とは、自己の命に、喜びをできるだけ多く味わわせるようにするところに、本当の生きがいがある。

笑っているとき、人間は最も強い。

人生あまり難しく考えなさんな。暗かったら窓を開けろ、光がさしてくる。

持たなくてもいい重い荷物を、誰に頼まれもしないのに一生懸命ぶらさげていないか。

お前の頭の中に、何が描かれているか当ててみようか?それはお前が失敗して、しょんぼりしている哀れな姿だろう。そんな絵は消してしまいな!おまえが、堂々と相手を説得して「大成功」 というシーンを描くのだよ、そうすれば仕事もきっとうまくいく。

人としてこの世に生まれて一番大切なことは、人に好かれる人間になることだよ。

人が人の世のためを、本位として生きる時、その心の中に、卑しい不平不満の火は燃えない。
健康や運命というものは、それを消極的に考えない人々にのみ恵与されるよう、宇宙心理ができている。

どんな些細なことでも感謝を先にして喜びで迎えたなら、黄金花咲く爛漫たる喜びの世界になる。

一切の人生の果実は、その人が蒔いた種子のとおり表現してくる。

心のもち方一つが、結局、人生の運命を決定するんだ。

私が事業家にいいたいのは、ここだ。

宇宙の心理に背いた、自分本位の欲望でもって、しようとしたことは、そう滅多に成功するものではない。

事業に成功するのは、自分が欲望から離れて、何かを考えたときに、また、その考えたことを実行するときに成功するのだ。

同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう」という気持ちでやるのでは、その結果が全然違うのである。

その一語一語、その言葉のすべてが、人生に直接的に影響する暗示となる。

百歩譲って、いくら磨いても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなるぜ。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。

人生は心ひとつの置きどころ。要は他人のアラや欠点を詮索することを止めて、自分のアラや欠点の方を詮索することである。

運命よりも心の力が勝てば、運命は心の支配下になる。

本当は心の力によって、いかようにも人生は好転させられる。運命は自分の力で切り拓ける。

「こうあればいい」という理想を説くのではなく、「こうすればいい」という具体的な実践方法が大切。

私は今後かりそめにも、吾が舌に悪を語らせまい。否、一々吾が言葉に注意しよう。

同時に今後私は、最早自分の境遇や仕事を、消極的の言語や悲観的の言葉で、批判する様な言葉は使うまい。

終始、楽観と歓喜と、輝やく希望とはつらつたる勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。

そして宇宙霊の有する無限の力をわが生命に受け入れて、その無限の力で自分の人生を建設しよう。

言葉というものには、強力な暗示力が固有されている。

従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言葉を戯れにも口にしてはならないのである。

信念。それは人生を動かす羅針盤の如き尊いものである。

従って信念なき人生は丁度長途の航海の出来ないボロ船の様なものである。

私は能う限り可能的で高級なる想像の絵を心に描こう…。ハッキリと明瞭に…。

但しどんな仕事があっても、夢にも自分の生命を腐らし泥ぬる様な価値のない事は想像するまい。

終始一貫、勇気勇気で押し切るのだ。

私は力だ。力の結晶だ。何ものにも打ち克つ力の結晶だ。

だから何ものにも負けないのだ。病にも運命にも、否あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。そうだ!!強い強い力の結晶だ。

万が一将来、わが日本を滅ぼすものありとすれば、それはけっして日本以外の国ではない。日本人それ自身である。

いかなるときでも真剣であれ。どんな些細なことでも真剣であれ。

さしあたる事柄のみをただ思え。過去は及ばず、未来知られず。

 -ここまで-

 --暗かったら窓を開けろ、光がさしてくる。--
 いい言葉だ。
 繰り返し、繰り返し、自分へ自己暗示をかけろ。
 自己暗示で、自分の心に火をつけろ。