▲変態なのに極めて保守的—か。
これこそ、日本の歴史を紐解かなければ分かるまい。
で。
法然上人が弟子である親鸞に結婚を勧めるエピソードから。
--ここから--
法然上人71歳、親鸞聖人31歳のことである。
関白九条兼実公のたっての願いということで娘玉日姫を親鸞聖人に嫁がせたいとの申し出があった。
法然上人「唐突な話だがな、そなた、結婚する気はないか」
親鸞聖人「は?!結婚?そ、それは・・・」
法然上人「今、関白殿がこられてな。そなたを是非、娘の婿に、と言われるのじゃ」
親鸞聖人「関白殿が・・・」
法然上人「娘御は、玉日と言われる方でなあ」
親鸞聖人「玉日様、ですか・・・」
法然上人「知っているのか」
親鸞聖人「はい。以前少し、お会いしたことが・・・」
法然上人「そうか。知っていたのか。それなら、話は早い。どうかな」
親鸞聖人「はい。あの玉日様ならば。しかし、お師匠様。お師匠様や、門下の皆さんに、ご迷惑がかかるのでは・・・」
法然上人「ワシはかまわん。皆の事も、案ずることはなかろう。そなたに、その覚悟さえあれば」
親鸞聖人「ならば、喜んで、お受け致します」
法然上人「よいか、親鸞。弥陀の本願には、出家も、在家も、差別はないが、天台や真言などの、聖道自力の仏教では、肉食妻帯は、固く禁じられているのは、承知の通りじゃ。彼らや、そして世間から、どんな非難攻撃の嵐が起きるか、わからぬぞ」
親鸞聖人「はい。それは、覚悟しております。
すべての人が、ありのままの姿で救われるのが、真実の仏法であることを、分かっていただく御縁になれば。親鸞、決して厭いは致しません」
法然上人「その覚悟、忘れるでないぞ」
親鸞聖人「はい」
--ここまで--
「すべての人がありのままの姿で救われるのが真実の仏法である」—と。
この部分に、仏教の日本化というか、日本人の手によって一つ高みに登ったということが分かる。
かって、橋下さんが沖縄の在留米軍の司令官に「風俗を使ったら」--と言った、根源がここにある。
以下、新聞から抜粋。
中国メディアは、「日本人は変態なのにどうして、人に愛されるのか?」と題する記事を掲載。
記事は、日本人は奇妙な性癖を持っていたとしても、
それが他人に悪影響を与えてはいけないという、責任感を持っているからだと。
記事は、世界各国を対象にした性意識についての調査で、日本は「極めて保守的」との結果が出たと紹介。
一方、中国は性意識が開放され、さまざまな項目で「米国よりも開放的」の結果が出た、
中国人が日中両国民の性意識について持っているイメージが覆される結果と。
調査について、日本で成人向け映像作品が発達していることと「矛盾」していると表現。
中国人で、日本の映像作品のとりこになる男性も多い。
記事は「大相撲」に触れた。
中国人は、力士の多くが肥満体であることを「スポーツ選手として異常」と思い「変態的な競技」と感じる人が多い。
若い力士が教室に集まって書道を学ぶ様子を紹介し、
「相撲とは高雅な行いと認識されている」、「力士は熱心さと広い心、誠実さを、謙虚さを具えている」と。
さらに、「大相撲の力士になろうとしたら、伝統文化と相撲の技の両方を見につけねばならない」と説明。
若い力士が毛筆を操る様子を「興味深く、愛すべき光景だ」と評した。
日本の“やくざ”の「指つめ」も紹介。
「犯罪組織」とした上で、「約束を守らなかったための懲罰」と説明。
日本人が約束を大切にし、破った場合には懲罰を受けることを承諾する考え方は、
わらべ歌の「指切りげんまん」にも反映されていると。
日本人には「互いを尊重すること」、「自分のやりたいようにしたい」との気持ちがある一方で、
「規則を守り他人を尊重する」考え方や習慣が浸透し
「それぞれが奔放でありながら、社会全体としては秩序が保たれている」と。
「他人に悪影響を与えてはならない」との日本人の考え方は、独特な「お詫び文化」を形成した。
日本語では表現だけでも、「すみません」、「ごめんなさ」、「お気の毒」、「ご迷惑をかける」、「ご面倒をかける」、
「頭を下げる」、「お詫び」、「謝罪」、「陳謝」など、「お詫びの言葉」があり、
これに敬語表現を組み合わせると、日本語のお詫び表現の複雑さと豊富さは「世界一」と紹介。
文章は、中国人が述べる「お詫びの言葉」は、礼儀や素養と直接の関係がなく、
「お詫びをした人も、仕事の能力が低い人とみなされるだけの場合が多い」と指摘。
日本人の場合には、「お詫び」が礼儀や文化の一部になっており、
「お詫び」をすることが、対人関係の潤滑剤になっていることも多いと。
▲補足、感想など
なにか、とりとめのない雑駁な文章ではある。
中国人は、日本のavの普及と「日本人の性的に極めて保守的」という矛盾に見える事実に驚くのだろうな。
どういえばいいのかなぁ。
「本能の部分」のことって、臭覚と同じで「疲れてしまう」のだ。
人間の本能であるが故に刺激的だ。
でも、刺激的であればあるほど、何度も繰り返せば疲れてしまう,そこらじゅうに溢れていると疲れてしまう---この部分こそが、「人間のありのままの姿」なのだ。
そして、通常の姿、通常のものとなってしまう。
人間は、普通の通常のまま暮らしていくのが一番楽だ。
で。
日本人は、性的に極めて保守的となってしまう。
もう、刺激が刺激でなくなってしまう—ということだ。