2017年4月14日金曜日

東條英機と天皇の時代(上) 保坂正康著 文春文庫 1988年12月刊 感想

この文庫本を読むのにどれだけの時間が掛かったろう。
 3日で一冊てなことを思っているのだが、とんでもない話だ。
 半月? いや、20日程度は充分にかかった。

 表題にあるごとく、(上)しか読んでいない。
 なにに興味があったかというと、太平洋戦争に突入する際に、東條首相を始めとする日本の首脳たちは、どう戦争というものを考えていたのか。また、どう最終的な姿を想像していたのか---という点だ。

 結論から言うと、この300万人近い日本人兵士達を死に追いやった「太平洋戦争」というものの「最終的な姿」なんてものを想定した人は誰もいないのだ。
 そこにあるのは、産業革命組の諸国に対する「怒りのようなもの」だけだ。

 こんな日本人の姿、どこかで見たことがあるなぁ、と感じた。
 福島原発の事故に対する現在の日本人の姿に重なる。
 原子力というものがもつ「凶暴さ・粗暴さ」が、事故を契機にして誰の目にも明らかになると、それに対する恐怖というものが、日本人に襲いかかる。

 すると、すぐに卒原発とか、やれ原発をゼロにしろ—とか声高にいいつのる人が出て来る。
 しかし、考えてみよ。
 人間が暮らしていくためには、ある絶対量のエネルギーが必要だ。
 じゃ、どこからエネルギーをもってくるのだ、と合理的な判断をもつ人がもの言っても聞こえなくなる。
 政治家は、選挙のことを考えると「原発の存続、新設」なんてことが言えなくなる。

 太平洋戦争突入でもそうだ。
 じゃ、イギリスを、オランダを、アメリカという国を制圧できるのか?という合理的なことを言う人も当然いたのだろう。
 しかし、国民の大多数が、産業革命組の諸国に対する反発・怒りのような感情に支配されて、合理的な声が、かき消されてしまうのだ。

 つまり、感情>>>合理性・科学性 ということになる。
 こういう対応の仕方は、別に日本人だけではあるまい。
 人間がもつ対応の一つと言ってもいいのだろうな。

 なにもなければ、アメリカ相手に敵対することもできなかったのだろうが、戦艦大和、ゼロ戦等の製造が可能であったことで、自分の縛りを解き放ったということだろう。

 それにしても、と改めて思う。
 1941年というタイミングを考えてみよ。
 明治維新から73年しか経過していない。

 丁髷を切ってから、70年余だ。<現在が、先の大戦から70年が経過したくらいだ>
 こうしてみると、日本人という民族の「高速度ぶり」に驚かされる。
 この「日本民族のもつ驚くべき高速度性」を産業革命組の諸国は、見誤るのだ。

 そう言えば、総合誌bで特集した「日本破れたり」でコメントしていた、元日本軍兵士達は、「日本人は他の民族から正しく理解されない、そこに戦争の遠因があるのだ」ということをしきりに言っていたなぁ。
 つまり、日本人が本質的にもつ「ガラパゴス化せざるを得ない特性=高速度性」を、他民族からは理解されないまま、ここまで来たということか。