▲「ひらかな」が800年代の半ばには、普通に使われていたようだ—という記事があった。
「ひらかな」が正式に使われたのが古今和歌集だ(900年代初め)--と。
古今和歌集なんて、もう、「ひらかな」がそれこそ、十二分に世間に普及して使いこなしていなければ、あれほどこなれた表現にはなるまいと思えるのだが--。
あぁ、そうか。日本語を使いこなすということと「“ひらかな+漢字”で書き言葉としての表現」は違うなぁ。
平安京への遷都が、700年代末。
700年代末から800年代にかけて、ひらかな等が確立・普及したといことか。
ただ、思うのは、日本へ漢字が伝来したのが、諸説あるが1世紀から5世紀頃。
王仁博士の論語の伝来を正しいものとしても、そこから400年くらいかかっている。
400年?
日本人という民族の外国文化の取り入れ方をみていて、この400年という歳月は大き過ぎないか。
仮に万葉仮名という漢字一文字を日本語の一音に当てるという手法を使う期間が長かったとしても---。
そこにどういう理由があるのだろうか。
以下、新聞から抜粋。
京都市中京区の平安京跡にある平安時代の有力貴族邸跡で出土した9世紀後半の土器片から、多数の平仮名の墨書が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が、発表した。
平仮名は勅撰和歌集「古今和歌集」や「土佐日記」が編集された10世紀前半に確立したと考えられてきたが、通説より半世紀程度早く完成したことを示す一級の発見。
完成された平仮名の文書としても最古とみられる。
土器は、右大臣を務めた藤原良相(よしみ)(813~67)邸跡で昨年11月に 出土。
庭の池(20メートル四方)に張り出した「釣殿」とみられる建物跡 の周囲から、9世紀半ばから後半にかけての特徴を持つ皿や高坏(たかつき)など墨書土器の破片約90点が見つかり、うち20点で計約150字の平仮名が書かれているのを 確認した。
平安京跡でこれほど平仮名の墨書がまとまって見つかるのは初めて。
筆跡などから複数の 人物が記したとみられる。
文字列の多くは意味が不明だが、鑑定した西山良平・ 京都大教授(歴史学)によると、皿の裏にある「ひとにくしとお□はれ」は「人憎しと思 われ」と読めるという。
別の皿には、歌の一節とみられる「かつらきへ(葛城へ)」の
文字もあった。
高坏にある「なかつせ」という墨書は、日本書紀の伊耶那岐命(いざなぎ のみこと)のみそぎの場面に登場する「中つ瀬」を表すとみられる。
土器片が出土した邸宅跡に住んでいた藤原良相は天皇の外戚で、文学や仏教に通じていた人物。
周辺は「百花亭」と呼ばれる桜の名所で、天皇 や貴族が歌会を催したという。
当時は饗宴の場で土器に歌を書く作法も あったとされる。
佐野宏・京都大准教授(日本語史)は「『ひとにくしとお□はれ(人憎しと思わ れ)』には『うっとうしくもあるが、かわいらしい』という意味がある。
貴族が宴席
で、楽しんで書いたように思える」と話している。
土器は30日~12月16日、京都市上京区の市考古資料館で公開される。
▲補足、感想など
5世紀に漢字伝来 →9世紀にひらかな使用 か。
この期間の空き方は一体なんだろう?
日経の春秋でも、ひらかなを取り上げていた。
アメリカのリービ秀雄さんの言葉を引用していた。曰く。
「大陸の文字を変形して島国の感性をあらわす仮名をつくった。文化の越境です」--と。
また、中国社会科学院文学院 李兆忠という先生曰く、
「ひらがな」の創造は、日本語が自分の「形」と「心」を探し当てたことを意味する。--と。
う~ん、なんというか「核心を突く」という表現がぴったりの文章だな。
さて、カタカナは、おそらく僧侶による発明だろう。
ちょっとウィキペディアから転記してみよう。
--ここから—
漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは8世紀初めから見られる、
片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字を付記したものに始まる。
借字は、最初は経典の行間の余白などにヲコト点とともに使われていた。
それが小さく素早く記す必要から字形の省略・簡化が進んだ結果、片仮名の原型となり、ヲコト点に成り代わって訓読に利用されるようになった。
片仮名は、僧侶や博士家などによって漢字の音や和訓を注記するために使われることが多く、ごく初期から仮名交り文に用いた例も見られる。
後には歌集や物語をはじめ、一般社会の日常の筆記にも使用範囲が広がったが、平仮名で書かれたものが美的な価値をもって鑑賞されるに至ったのと比べると、記号的・符号的性格が強い。
時代を経るに従って字体の整理が進み、12世紀には現在のそれと近いものになった。
--ここまで--
ひらかなは、多分、女性による万葉仮名の崩し(草書体)からであろう。
ウィキペディアから転記しよう。
--ここから--
平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた借字(しゃくじ)である。
平安京に都が遷されて以降、借字として使用されていた漢字の草体化が進み、ついにもととなる漢字の草書体から独立したものが平仮名となり、文章を記す書記体系として確立した。
すでに8世紀末の正倉院文書には、字形や筆順の上で平安時代の平仮名と通じる半ば草体化した借字が記され、
--ここまで--
いい加減に考えてみると
比 → ヒor →ひ というように、漢字 →かたかなor →ひらかな と変化してきたものだ。
ウィキペディアを読んでいると、平安京へ遷都した700年代の終わり頃から800年代一杯で、ひなかな、かたかなが出来上がったようだ。
ならば、5世紀に漢字が伝来して、万葉集が出来上がる過程で使われた万葉仮名という時代が長かったということになる。
大陸からもたらされた漢字を、こわごわ使う奈良時代の日本人が目に浮かぶようだ。
先の大戦後、日本人が英語に対して抱いていたような感覚—う~ん、憧憬とか畏怖とか-そんな感覚がごっちゃになったような感じでこの「漢字」というものに対応していたのだろうな。
ただ、日本人は面倒くさがりやだし、また、日本には早くから紙が伝来していたので、書き言葉として、「草書体」というものが生まれることは必然であったし、そこから「ひらかな」が生まれたのだろう。
核心は、「漢字が使える人の数」と「紙と筆」ということかな。