2013年1月18日金曜日

日本文化は、幼稚で軽薄で愚昧だ—と。


▲日本文化は、幼稚で軽薄で愚昧か---
 なるほどなぁ、と思う。
 その通りだろうなぁ。
 それが、「かわいい」という言葉へたどり着く一つの要素となっているから。
 まぁ、「かわいい」という言葉に包含される「いくつかの面」なのだろう。
 幼稚だから、かわいい。
 軽薄だから、かわいい。
 愚昧だから、かわいい---のだ。
 さて、中国人にとっては「三国志」というのはなにか大きな歴史的なテーマらしい。
 時々、新聞などで、○万人での撮影がとうたらした—とかのdvdの宣伝をみる。
 で--
 と思う。これだけなのか?
 俳優を使い、数万人のエキストラを使い、映画として創作しただけなのか。
 そこから、広がらないのか。
 三国志という「中国最大のテーマ」を使って、これをアニメにするとか、諸葛亮孔明を「女性」にしてしまう—とか、劉備玄徳を「ネコ」にしてしまう、マンガにしてしまおう--とかできないのか。
 曹操を「女子高生」にしてしまうと、上でふれた「幼稚」「軽薄」「蒙昧」となるのか。
 つまり、このあたりだな。
 中国人にはこういう発想の広がりがないのだ。
 だからこそ、中国でろくな「アニメ」も作ることができないのだ。
 まず、自分の「弱点」を直視しろよ。

 以下、中国の新聞から抜粋。


 日本の華字紙「新華僑報」に発表された記事によると、海外では日本文化の影響力が衰えているという。
 彼らのソフトパワーに陰りが出ているというのだ。
 ソフトパワーを高めることは経済発展につながると言われるが、 日本の場合は、経済の疲弊がソフトパワーの地位を下げている。

 以下は要約。

 日本のマンガが世界を席巻しているというのは言い過ぎではない。
 日本のソフトパワーはかなり強力だと言わざるを得ない。
 しかし、ある面から見ると、日本のソフトパワーが落ちていることがうかがわれる。

 メルボルン日本語教学センターの主任が行った研究によると、オーストラリアで日本語を学ぶ学生の数は2000年から16%減少した。
 日本語学習者の減少数から見れば、海外における日本文化の影響力は徐々に落ちており、ソフトパワーに陰りが生じていると言える。

 この20年、日本経済は下り坂を転げ落ちるばかりだった。
 加えて「少子高齢化」の問題も深刻だ。
 日本語を問わず外国語を学ぶことは、 実際に学ぶ人から見れば、将来の武器につながるものだ。
 そのような状況では、文化的魅力だけではカバーできないのである。

 真に日本文化を愛する人に冷や水を浴びせることもある。
 日本語を学ぶ人たちには、自分の将来のためだけでなく、漫画ファンであったり、 コスプレマニアだったりする人が少なくない。
 そのため、日本経済の先行きが暗くとも、彼らにとって大きな心配事ではない。

 ところが、これらの人たちが憧れの日本にやって来てしばしば感じるのは、日本は決して漫画のような国でも、童話のような国でもないことである。
 しかも、彼らのうち、 一歩進んで日本文化の本質を理解しようとする人は、20人中1人といったところだろう。
 失望感の広がりが、日本に憧れを持つ人たちに影響を与えている。
 それ以外にも、海外で歓迎されているという日本の流行文化のレベルと名声は、決して言われているほどのものではない。
1970年より、日本の美意識、文化、国家の特徴を表すキーワードは「カワイイ」だった。

 「カワイイ」を中核とする流行文化に対し、吐き気をもよおす人も少なくない。
 いったい、「カワイイ」が日本にどれだけの文化的パワーをもたらしたというのだろうか。
 それによって、日本が信頼され、尊敬される民族だと思われるようになっただろうか。
 さらに率直な意見を持つ人も少なくない。

 カワイイ物がもたらす喜びはいずれも、幼稚で浅薄、あるいは愚昧だと、鼻で笑う人もいるのだ。
 以下のような言い方をすることもできる。
 日本では軍事という「ハードパワー」が憲法で制限を受けていることから、「皮相的」な「カワイイ」で世界に影響を与えることにしたのだ。
 「歴史」という難関を真剣に再考するよりは、日本のもっと積極的なイメージを世界に植え付けようとしたのだ。

 文化的な魅力は、国家のみならず、国民や社会から構成される。
 日本の文化的な魅力が減少している背後には、日本のソフトパワーの国際的な影響力の陰りがある。
 とはいえ、我々が注意すべきなのは、日本国民の民度や、国家的な科学技術力で作られた文化的な力である。
 それらは依然として、世界でもトップクラスだ。
 我々が文化的影響力を高めたいと思うならば、日本に学ばなければならない。


▲補足、感想など
 日本のソフトパワー—ねぇ。
 マンガとかアニメなどのことか。
 でもなぁ。
 日本のマンガとかアニメとか、そもそも外国で売ろうとか外国の人に影響を与えようなど—と考えてつくったものではない。
 日本人が自分たちで楽しむために作って読んでいたのだ。
 筆者など、昭和30年代初めからマンガ、アニメを見てきた世代だ。
 日本のアニメが海外でも見られているんだ—とか気がついたのは、そうだなぁ、20年前くらいかな。
 つまり、こんなものを外国人が面白い—と興味をもつことが不思議だった。
 だから、日本のソフトパワーとか仰々しい言葉だが、日本人向けのもので、外国人のことなど知ったことではない。
 それを「衰えた」のどうのなど、どうでもいいことだ。
 外国人は、見たくなければ見なければいい。
 このことは、別の例えば日本画とか陶芸、蒔絵などにも通じるなぁ。
 ひっくるめて、日本の、日本人による「独創の美」なのだ。
 極めつけは、俳画とか禅画とか—であろうが、日本人にはその良さが分かるが、外国人にはなんのこっちゃ--であろう。
 それで別に構わない。
 分かる人に分かってもらえば充分だ。価値を認める人に認めてもらえば充分だ。
 上の一連のことの核心は、「文化のローカル性」ということなのだ。
 民族が違えば、価値があると認める「モノ」も違うのだ。
 だから。
 ソフトパワーが衰えるとか衰えない—とかいう話ではない。
 これは--
 日下公人さんの言葉を借りれば、世界が日本化するかしないか—という話にいきつくのだろうな。
 大事なことを繰り返そう。
 マンガとかアニメなど、日本人どうしのうちわで楽しんでいたのだ。
 外国人がどう思おうが知ったことではない。