▲う~ん、簡単に言えば「お天道さまが見ている」--という感覚かな。
自分のなした善行も悪行も、最後は自分に帰着するという感じかな。
どこらに根源があるのだろう。
ムラ社会というものの伝統的な意識が残っているのかもしれない。
別に法律がどうこうというより、子供の頃から親に「お天道さまが見ている」のだ—と言われ続けてきたことによる、自己規制なのだろうな。
以下、新聞から抜粋。
1990年代末以降、刑事司法の厳罰化が進んでいる。
80年代からは量刑は倍になり、
2000年の少年法改正を皮切りに法律改正が続いた。
10年には時効も廃止された。
犯罪が増加したわけでも、凶悪化したわけでもない。
外国と比べて日本の犯罪率は低い。
東日本大震災時に被災者が整然と行動していたことは海外にも絶賛された。
◇「世間」にがんじがらめの日本人
治安の良さと厳罰化の流れ。
「世間」に日本人ががんじがらめになっていると刑法学者の『犯罪の世間学』の佐藤
直樹氏の主張だ。
日本には伝統的に世間が存在したとの指摘は阿部謹也が提唱した世間論で知られる。
著者は世間を「日本人が集団になった時に発生する力学」と定義、「空気を読む」を例に特徴を解説。
「世間」には「人間平等主義」があるため、日本人は能力や才能の違いを認めず「みんな同じ」だと思っている。
これと格上・格下などの「身分制」のルールが相乗して、「ねたみそねみひがみやっかみ」意識が生まれる。
「ねたみ」の意識が働き、隣人の差異に敏感、出る杭は打たれるし、下手に金遣いが荒くなったら、
「何か悪いことでもしているのでは」と噂も流される。
治安の良さを実現する一方、閉塞感に満ち生きづらい。
◇日本人にとって法律とは?
興味深いのは著者が「日本人は法律を信じていない」と強調する点。
日本人は法のルールに反するより手前で、世間のルールに反し、「世間」のソトへと排除されることを恐れる。
排他性が強いから、世間のルールへの同調圧力が強く、自己抑制を要求される。
危害のベクトルが他者より自己に向きやすいために、自殺率の高さにつながると指摘。
新自由主義の拡大に伴う世間の復活こそ最大の論点だ。
秋葉原無差別殺傷事件、「黒子のバスケ」脅迫事件、
佐世保高一女子同級生殺害事件を「世間」を軸に分析する章も異なる視座を与える。
世間には排除だけでなく、相反する包摂の性質も持つ。
犯罪者を排除するだけでなく、謝罪する犯罪者をゆるして包摂する側面がある。
好感度ナンバーワンタレントの騒動やスーパーアイドルの公開謝罪も「世間」抜きでは語れない
今(犯罪でないにもかかわらず誰かに謝らなければならないからこそ「世間」は権力であり執拗なのだが)、本書で「世間」と「罪」について考えてみるのも悪くない。
▲補足、感想など
この記事の論評、どこかネジ曲がっているなぁ。
記事を読みながら、冒頭でふれた「お天道さまが見ている」--という意識は、日本人が稲作を3千年以上も繰り返して掴んだ「集団知」とでもいうものなのだろう--と感じた。
水田による稲作は、連作ができる。
連作ができるということは、毎年同じ時季に同じ作業・行動をする—ということだ。
また、田植えとか稲刈りという時には、隣近所の援助も必要であったろう。
こういう小規模な範囲での社会性を保ちつつ、3000回以上も同じ作業を繰り返してきたことで得た「ご近所とのつきあい方・共同作業の仕方」の「智慧」ではあるまいか。
これこそが、「お天道さまが見ている」なのだ。
だから。
日本人の生き方は、簡単なのだ。
「お天道さまが見ている」という言葉の前で、恥ずかしくないならばいくらでもしていいし、恥ずかしいと感じるならやめればいい。
誰に謝罪しているのだ? という問いが記事にあるが、分かりきったことだろう。
「お天道さま」に謝罪しているのだ。
日本人が3000回以上も稲作を繰り返して得た「集団としての智慧」こそ、「お天道さま」であろう。