2012年9月17日月曜日

日本語は、世界の進歩に対応できない—って。


▲韓国の新聞記事に表題のようなテーマが載っていて、なんかなぁと思った。
 まぁ、お好きに言えばいいのだが、英国の産業革命に500年も遅れをとるような民族に言われても、説得力があるまい。
 まず、記事を抜粋して、要点を押さえてみよう。
 以下、韓国の新聞から抜粋。

 この前、会議に参加した経済部署長官は「日本の国運が限界に達したことを言語使用法で感じた」と。
「同じ表現を韓国と中国の長官は簡潔に言う、日本の長官はぐるぐる回してた。
 通訳は簡単に終わるのに日本語では二倍位時間がかかった」という。
 例えば韓国語で「それは問題ありません」という言葉を中国語では「没有関系」というが、日本語は「それは問題ではないとおもいます」と。
 遠回しに言って婉曲に話すのが口に染み込んでおり、時間をくっている感じだと。
 総てがこんな塩梅で、聞く人が苦しくなりグローバル競争とコミュニケーションの要諦である効率とスピードで日本が遅れをとるほかないとの感想だった。
 20世紀後半まで世界市場を席巻する勢いだった日本の底力の根源は1867年、明治王即位とともに断行した‘明治維新’だった。
 日本は欧米列強に追いつくため強力な中央集権体制とともに主要産業の育成が至急だと判断、幕府体制を王政に戻して西洋文物を吸収するのに総力を傾けた。
 だが、近代的市民主義を鼓吹し一人一人の覚醒と創造力を呼び覚ました改革と距離が遠かった点は明白な限界であった。
「上からの改革」だった明治維新は日本人にとって‘本音(本心)’を胸中深く隠し‘建前(表面表情)’を管理する行動文化を育てたという分析もある。
 これでは急変する状況に合わせた対処能力を発揮するのは難しいのが当然だ。
 グローバル大量生産パラダイムがデジタル創意経済に急速に移行し始めた1990年代以後、日本が‘失われた20年’の衰退期に陥ることになったことと、上意下達式明治維新が関係がなく見えない理由だ。
 気楽に安住しようとする若者たちによって日本が海外留学生の数字は4分の1にもならない現実は、そのような文化の遺産ではないか。
 不確実性と対抗して勝ち抜こうとする挑戦意識の欠如は正規職場を冷遇したまま‘必要なお金が集まる時までアルバイトをする’フリーター(freeter)族の噴出にも現れている。
 明治時代に‘鎖国’を守った韓国は列強の餌食に転落する侮辱を受けなければならなかった。
 産業化した後も日本式経済政策とシステムを相当部分まねる‘コピーキャット(copy-cat・模倣者)’の道を歩み‘後発者の屈辱’も十分に味わった。
 韓国が情報技術(IT)電子自動車などで日本に追いつき追い越して、国家信用等級ですら日本に先んじた。
 明らかなことは個性があふれる韓国人の創意と挑戦精神DNAがよどみなく世界を揺るがしているという事実だ。
 韓国の‘国運上昇’を継続するために必要なことは、民間の自律と創意を培って助ける政治・行政システムだ。
 

▲補足、感想など
 えっと、要点だけでもまとめてみよう。
あ、中国語と比較しても、同じ意味を伝えるには文字数が多すぎる。
い、明治維新とは、上からの改革であり、下のものは建前と本音を使いわけるようになった。
う、デジタル時代に、上意下達が合わなくなったのではないか。それが失われた◯◯年を生み出したのでは。
え、日本人の若者の挑戦意識の喪失は、海外への留学生の数が極端に減少したことに現れている。
お、対して、韓国人の創意と挑戦精神が世界を揺るがしている。
 ぐらいか。
 これが、韓国人の視点だ。
 さぁ、同じことを日本人の目から見ると、どう見えるのだろう。筆者の考えで反論してみよう。
か、長短の問題については、韓国語は外れているのだな。中国語と日本語を比較すれば、同じ意味らしいことをいうには、中国語に比して日本語は長いと。ついでながら、韓国語は漢字を捨ててしまってハングルのみだ。ならば、同じ意味らしいことを伝えるには、日本語より韓国語の方がより長くなるはず。
 話を元に戻して、長短という簡単な判断基準で「優劣」は論じられまい。
 中国語は、日本語のような「かな」を使わないことで、複雑な概念的なことを伝えることができない欠陥言語だ。その弱点を補うために、人一倍「英語」を勉強しなければならないのだろう。
 いや、中国人が日本語の「かな」を使うと決心すれば、「英語」に頼ることもなかったのだ。
 1940年代かなぁ、毛沢東は日本語の「かな」を使用することを提言したが、他から猛反対されたという。
 毛沢東という人は、文化大革命という徹底的な破壊を行ったが、この日本語から「かな」を導入しようと提言できる能力は、並の中国人達より頭一つ抜きん出ていることが分かる。
き、明治維新と「本音・建前」とは関係がない。
 本音と建前を使い分けるというのは、組織内で生きていれば、当然のことだろう。別に日本だけにある訳ではない。
 明治維新が「上からの改革」であったかというのは難しいな。
 確かに薩長にせよ、中心となったのは「武士階級」だ。まぁ、下級武士であったことで、「天皇制」という枠組みの方が、他の階級の人達を説得しやすいと判断したのだろうな。
 少なくとも「農民・商人」達からの改革ではなかった。その意味では「上からの改革」といってよかろう。
く、デジタル時代に、日本語が適しているかどうかというのはどうかな。
 適していないとも言えないし、ぴったり適しているとも言えまい。
 インターネットの世界では、世界中の3割以上が日本語で占められているという調査結果を読んたような気がするから、適していないともいえまい。
 上意下達とデジタル時代の関連については筆者には分からない。
け、最近の海外への日本人留学生が減少したことについて、「挑戦意欲の減退」だろうという指摘は、まぁ、当っているとは思う。
 しかし、それよりも、19世紀後半・明治維新以来、欧米列強に追いつこうと坂の上の雲を見上げながら、坂を登り続けてきて、21世紀に入った頃、坂のてっぺんに辿りついたことが大きいのだろうな。
 もう、欧米諸国に学ぶことはないなどと尊大なことをいうつもりはない。
 ただ、日本でも実験等に充分にお金を掛けることができるし、また、海外諸国での治安の悪さ、食事のまずさ、白人からの人種差別などを考えると、どうしてもという気にならないのだ。
 また、日本語のみで充分にノーベル賞を授与されるレベルまでの研究ができることも大きかろう。---言語の問題は大きな意味をもっていることが分かる。中国語・韓国語単独では、ノーベル賞を授与されるまでの研究に達することができないという事実を直視せよ---
こ、韓国人の挑戦意欲については、筆者はなにも言う気はない。
 ただ、韓国語のハングルのみ、中国語の漢字のみでは、複雑な・抽象的な思考はできない。
 つまり、英語という言語を勉強して、2つの言語を理解してはじめてまともな勉強・研究ができるという事実を直視せよ。
 2つの言語を使えるようになって始めてという部分に、なんという浪費・無駄が存在するか---そのエネルギーを考えるとなんともしれぬ気分となる。
 自国の固有の・自国民が選択した言語が「欠陥言語」であるという事実は、その国の国民にとっては避けることのできない「宿命」であるが、その負担の大きさに日本人である筆者は茫然としてしまう。