2012年9月28日金曜日

映画-天地明察—感想。


▲天地明察という映画を見た。
日曜日だったのだが、その映画館の観客は数名だった。そんなに人気がないのかな。
筆者は面白く感じた。
以下、粗筋とか、筆者が気に入ったところとか箇条書きにしてみたい。

あ、タイトルがなにか特徴的だと思わないか。
 明察ってなんだろう。
 どうやら、和算と算額とに関係がある言葉らしい。
 算額というのは、和算を趣味とする人が、自分で難問を作り、神社などに絵馬として掲げ、解けるものなら解いてみろを世間に挑戦するものだ。この算額に解答を記しておくと、算額を掲げた人が解答をみて、正しければ、ご明察と書くのだという。--う~ん、難問を解いたぞ。お見事!!--という感じかな -- これが「明察」の意味だ。

い、主人公は、安井算哲という人。
 ウィキペディアでその概略を押さえてみよう。
--ここから--
 江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。
慶安5年(1652年)二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子・算知が継いで、算哲は保井姓を名乗った。
そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。
この後、算知、弟の知哲、春知などとともに御城碁に出仕する。
延宝6年(1678年)に本因坊道策が碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。
数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。
当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。
そこで21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。
ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。
春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(経度差)があり、「地方時」(時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。
そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。
春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、谷宜貞が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。
これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。
その後、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。
これが日本初の国産暦となる。
--ここまで
 映画もほぼ、このウィキペディアの内容に沿う形で進行していく。

う、ウィキペディアの記事だけでは、映画の面白さが理解できない。
 どこに核心があるのだろう。
 それは、日本人のもつ知性主義というものが江戸時代の始め、1600年代の中頃に、明瞭に発輝されているところが興味深く感じるのだろう。
 安井算哲という稀有な才能をもった若者を見出し、彼を援助し、大きな仕事を任せようと周囲のものが思うのだ。ここだなと思った。日本人という民族のもつ「知性主義」というか「優れた才能の見出し方・育て方」というところに特徴があるのだ。山崎闇斎も彼を可愛がったようだ。

え、日本ではまだ地球が丸いということさえ、一般常識化していない時代だ。
 安井算哲という人は、日本で最初に地球儀を作った人でもある。 → 映画では、この地球儀をつくった段階で、北京との経度差(グーグルのマップで、経度をみていると北京で116度、日本の京都で135度くらいだ。経度差として19度あるのだな。映画では確か15度補正を考えるとかいっていた筈。1600年代の中頃だ。それでも正解に随分近づいた)に気づいたというような内容となっている。
 授時暦(中国製だ)というものに内在するキズ(日本人にとって)の理由がやっと分かったという瞬間である。
 まさに、「天地明察」の瞬間でもある。

お、まとめ---
 最終的に貞享暦(大和暦)というものにたどり着くまで20年位かかったという。
 一つのことに執着できるというのはまさに「才能」そのものだ。
 日本人は、こういう人を大事にしてきたのだろうな。その積み重ねの結果が現在というものを作り上げているのだ。