2015年8月20日木曜日

日本軍は、殴打もはばからなかった—と元慰安婦。

元慰安婦と自称するお婆さんの証言を聞いてみよう。
 以下、新聞から抜粋。

 「学生たちに会って昔の歴史を知ってもらわなければいけないのに…腕や足がむくんで何もできない」。
 慶尚南道南海郡の自宅で会ったパク・スクイさん(93)は、 うめき声を出していた。
 スクイさんの腕や足はぷっくりとはれ上がっているようだったし、声は耳をそばだててやっと聞こえるほど。

 昨年までは『涙にぬれた豆満江』一節を歌い上げたが最近、健康が急激に悪くなった。
 パク・スクイさんは話すのが好きだった。
 たキム・ポクキ老人福祉士は「2、3年前には薬草をとってきて酒を漬け、近所に分けてくれていた。
 いろいろな話をするのを楽しみにしていた」と伝えた。

 今でもスクイさんの大事にしている酒がある。
 憂いを忘れさせていた酒だが、今は気力が落ちて酒のビンに手をのばすのも大変だ。
 編み物も長い間、手をつけていない。

 しかし日本にされた記憶さえも忘れたわけではない。
 スクイさんはて「かつて日政時代に苦労したことを知っておかなければいけない」と。

 スクイさんが慰安所に連れていかれたのは16歳の時。
 スクイさんは、いとこのお姉さんと一緒に海辺に貝掘りをしに行く途中に日本の軍人たちに会った。 彼らは2人の少女の首に刀を差し出して強制的に黒い車に乗せた。

 行った場所は日本の名古屋だった。
 朝鮮の少女10人余りと共に倉庫に閉じ込められた。
 数日後、日本服を着せて化粧をさせると、再び連れていった。船で、トラックで数日ほど行っただろうか。スクイさんは満州の慰安所に到着した。

 翌日から、慰安所には日本の軍人数十人が押しかけてきた。
 軍人は言うことを聞かなければ殴打もはばからなかった。
 スクイさんは苦痛の中で手首を切ったりもしたが、返ってきたのは再び鞭打ちだった。
 度重なる暴行に腰の骨が折れ、太ももを大剣で刺されたりもした。

 満州と上海で6年を送った後に解放が訪れた。
 スクイさんはほかの少女たちと一緒に命がけで慰安所を脱出。
 その時スクイさんのいとこは日本軍の銃に撃たれて亡くなった。

 慰安所を出たが故郷の地は遠いばかりだった。
 お金がなかったスクイさんは2年余りの間、中国人の男やもめの家で過ごして彼がくれた小金を地道に集めた。
 1948年祖国の地を踏んだが、すぐに故郷に行けず釜山に向かった。
 文字を習うことができなかったスクイさんは故郷が正確にどこなのか戻る方法も知らなかった。
 3年間、釜山の風呂屋で女中奉公をした。
 そんな日、幼少時の「『花芳寺』に行ってくる」という母の言葉を思い出し、花芳寺がある南海に戻ることができた。

 11年ぶりに帰ってきた故郷でも、スクイさんは身寄りがなかった。
 両親はすでに亡くなった後で、ほかの家族もあちこちに散っていた。
 慰安所生活で赤ん坊を持つことができなくなったスクイさんは、残りの人生を1人で耐えようとした。
 その時、子供たちが現れた。
 隣に住んだおじいさんが「子供をちょっと見てほしい」として預かったが、おじいさんが亡くなった。 おばあさんは子供を養女にした。
 少し後には町内の娘が男の子を預けた後に行方をくらました。
 孤児院を訪れて別の娘とも縁組をした。

 スクイさんは出会った1男2女を育てながらも、子供が結婚し孫が成長するまで慰安婦被害の事実を隠していた。
 2012年、277人目の慰安婦被害者として登録した。
 その時、年齢は90歳だった。

 その後パク・スクイさんは地域の学校を回って学生たちに会った。
 今後、健康が良くなれば最初にしたいことも学生達の前に立つことだ。
 「体の具合が良くなれば、学生たちに昔の歴史を教えたい。日帝時代の歴史…講壇に上がりながら私は多くの大学生や高校生たちに会った」。

 今、スクイさんは療養院に入院している。
 平和の少女像の除幕式にも参加するはずだったが、ついに行けなかった。
 スクイ公園はパク・スクイさんの名前を取った公園だ。
 そこに、スクイさんが幼少期に貝掘りをしていた姿を形象化した銅像が立っている。

 スクイおばあさんは、いつ少女像に会って、いつ日本政府からきちんとした謝罪を受けられるだろうか。
 横になったスクイさんは、除幕式の時に着るつもりだったきれいな韓服をぼんやり眺めていた。
 しわの多くなった顔に、一筋の涙がそっと流れた。

補足、感想など

 ふ~ん、と思う。
 こういう元慰安婦と自称するおばあさんの証言を聞いていつも思う。
 昭和10年代の朝鮮半島って、北斗の拳ばりの「無法地帯」ではない。
 ちゃんとした法治国家であった。

 そんなところで、ある日、若い娘が二人もいなくなって大騒ぎにならない訳がない。
 この元慰安婦の両親はどうしていたのだ?
 地元の警察はどうしていたのだ?

 拉致というか誘拐ではないか。
 両親が大騒ぎしない訳がない。
 ところが、元慰安婦達の証言には、両親・警察の話が一切出てこない。

 また、拉致したという日本軍兵士が、若い女性を「倉庫に閉じ込め」「化粧をさせる」ということがある訳がない。

 つまり、この一連の情報から分かることは、高額の前払金と引き換えに、両親に民間の女衒業者へ売り飛ばされたということだ。
 そして、女衒業者が、「倉庫に閉じ込め」「化粧をさせて」慰安所へ連れていったのだ。
 殴打したとかは、女衒業者がやったことであろう。

 これなら、納得がいく。
 だから、「日本軍兵士」がとうたら—の部分は、「捏造」だろうな。
 こんなことを言えば、日本からお金がとれる--とか智慧をつける人がいて、それをそのまま固く信じているのだろう。

 まぁ、お好きだけ言ったら。
 上でもふれた。

 日本軍は公の組織だ。
 船に乗せるにも、倉庫を借りるには、書類が必ず残る。
 ところが、日本軍には、慰安婦をトラックにのせてなどいう書類などありはしない。
 つまり、日本軍がどうした—という部分は完全なウソだ。

 だから。
 上の記事が本当だというなら、日本軍が関与したという証拠を出してみよ。
 記事にあるようなデタラメな証言で、日本人を説得することなどできない。

 最後に大事なことを繰り返そうか。
 捏造慰安婦騒動は、日本人の名誉と尊厳に関わる問題だ。
 日本人は、謂れもない他者からの侮蔑に耐えることはできない。
 日本・日本人は、捏造慰安婦に関して謝罪も賠償も絶対にしない。