2017年6月27日火曜日

大笑い、ハッタリ・人食い中国人が「匠の精神」がどうたらと

笑ってしまう。
 パクリ、捏造専門の民族が「匠」がどうたらと、論じること自体がお笑いであろう。

 いいではないか。
 パクリまくり、捏造しまくっていて満足なのだろう。
 できもしないことを、コケオドシでもの言うなよ。

 以下、中国の新聞から抜粋。

 中国で称賛されている日本の「匠の精神」。
 しかし、高く評価されている匠の精神が、中国では見られないのはなぜか。
 中国メディアは、「ドイツ人と日本人には匠の精神があるのに、中国人にないのはなぜか」と題して、中国に匠の精神がない理由について分析。
 
 「環境的に匠の精神を持つべきではなかったため」だ。
 なかには、「民族性が違う」という主張もあるが、かつての西ドイツと東ドイツでは製品の質に大きな差が出たことは、民族性によるのではないことを示している。
 これは中華民族でも、中国と台湾や香港との間に大きな違いが見られるのと同じ。

 しかし記事は、中国人に能力がないわけではないと主張。
 3つの理由で匠の精神を示すことができなかったとした。
 1つが、「中国の変化の速さ」だ。
 物に不足していたのは一昔前、今では過剰生産で困るほどになっており、急速に変わりゆく製造業に質を求める余裕がなかった。
 
 2つ目は「中国にはチャンスが多すぎること」だ。
 新たな産業が次々を出てきたため、この30年間中国は企業家の楽園となってきた。
 大儲けする機会を逃してまで質に固執する「愚か者」はいなかったと。
 
 3つ目は「中国の起業家の抱える不安」があるという。
 中国では、起業家が成功するには袖の下を通すことが不可欠だが、そのためにいつ役人と一緒に自分もお縄にかかるかも知れない不安を抱えている。

 罪に問われるリスクを抱えながらすぐに結果を出さなければならない状況下では「まじめに、コツコツ続ける」匠の精神は現実的ではなかったと。
 
 上のことから、中国の過去30年間は「匠の精神がなかったのではなく、状況ゆえに匠の精神を持つべきではなかった」と主張。
 しかし、昨今では中国でも質を求める声が高くなり、匠の精神が求められるようになっている。
 中国はまず模倣などの安易な方法を止めることから始めるべき。

補足、感想など

 そもそも、匠がどうたらなんて、ここ数十年の話か?
 中国語という不完全言語は、高度で複雑な概念を伝えることができないし、また、習得しづらい言語であることより識字率自体が歴史的に低く、ために高度な技術があったとしても記録に残すことができず、また、伝播もできなかったということだろう。

 端的に言えば、中国民族という枠内は「匠」を生み出しにくい環境にあるのだ。
 ましてや、1960年代―70年代にかけての「文化大革命」において、キチガイ紅衛兵達が、4千万人以上の文化人・教養人・職人達を殺戮し、今の日本の京都にあるような名刹、文化財をことごとく、紅衛兵の手で、その指で破壊してしまったのだ。

 そういう不完全言語の民族が、文化財を尽く、粉砕してしまった民族が、「匠」がどうたら—てか。

 あぁ、思い出した。
 対して、日本では戦国時代、織田信長があらゆる種類の職人達で秀でたものには、「天下一」の名称をつけることを許したという。
 お陰で、傑出した職人達は、様々な「技術」で、「天下一」を称したという。

 ちょいと、そのあたりの文章があった。ご紹介したい。

 --ここから--
 「天下一の号を取る者、何れの道にても大切なる事なり。ただし、京中の諸名人として内評議うちひょうぎありて相定あいさだむるべき事」(『当代記』)

 「天下一」の称号を得ることはどんな道でも大切なことである。
 ただし、これを決定するには京都の名人たちが集まり、公平に評議して決定しなければならない、という意味であり、織田信長はこの定書さだめがきを京都奉行・村井貞勝に宛てに送った。
 元亀4年(1573)7月のことである。

 岐阜城天守。永禄10(1567)信長は美濃国を手に入れ天下統一をめざした
 この時期の信長は、勢力がようやく畿内に行きわたり、京の町の地子銭じしせん(固定資産税)を免除するなどして、より一層深く民衆の気持ちをつかんで大きな支持を得たいと考えていた。
 そして、冒頭の定書は京都中の職人たちを奮い立たせ、励ますことになった。

 具体例をあげると、鐘、釜、畳、茶器などの制作に秀れた者が輩出した。

 「京都(武野紹鴎)時代に京都天下一西村道仁にしむらどうじん、名越善正なごえよしまさなり。 
 道仁は信長公<御釜師おんかまし、わが家の元祖なり・・。」(『釜師由諸書』)
 「京之天下一、太郎五郎」(『津田宗及そうぎゅう茶湯日記』)
 「その方、畳刺たたみさし天下一として、信長御朱印なされ、諸公事しょくじ御免許の上は・・」(『玄以法印下知状』)
 畳刺(たたみさし)の天下一で代・石見いわみ(伊阿弥)新四郎宗珍そうちんは信長が上洛したとき内裏修造に際して畳大工の御用をつとめたのをはじめ、安土城の大・中・小書院の広間の畳の製造を請負って名をあげた。

 要するに信長はフェアな競争で技能を競うという自由を社会に与え、それまで重視されていた門閥や誰彼を問わず、力のある者を抜擢しようとしたということであった。
 京都に旗を立てて日本を統治するために、多くの武将が全知全能を傾けた。

 それは、名将中の名将のなかから、ただ一人だけが勝ち残る苛酷なサバイバル・レースであり、誰もが多大な必要経費と犠牲を払う命がけの戦いであった。
 そうした厳しい戦いを戦い抜くために、先頭を走っていた信長にとって、どの分野に限らず天下で最も秀れた者が誰なのかは大きな問題であり、なおざりにはできない問題であった。

 持ち前の好奇心もあったろうが、信長はこの「誰が最高なのか」という問題を職人の世界に適用したということで、その技能を競わせ、自由競争させることによって「天下一」の称号を与え、ひいては実力主義と自由競争が導入された結果、技術の大きな発展を促進する成果をあげて日本経済が活性化され、成長したのである。

--ここまで--

 日本における「技術に対する畏怖・畏敬」というものが、これほどの歴史をもっていることを讃えたい。