▲なんか場違いなものを、と映画館の座席に座って思った。
なんせ、周りは小学生などで一杯なのだから。
で。
この映画、難しいなぁ。<なにか、年を追うごとに難しくなっている感じがする>
小学生が理解できるようなものではあるまい。
映画作りでも、このあたりが難しいところなのだろう。
小学生向けとか—となると、とてもではないが、幼稚すぎて、むしろ誰も見やしない。
年齢を重ねればいつかは理解できる--、本物なら全部が理解できなくても、その「本物さ」が子供を引きつけるのだ---てなところかな。
以下、粗筋などに触れながら、箇条書きとしたい。
あ、この国民的キャラが2つも重なった複雑な筋の映画をみながら、対するアメリカ映画の筋の単純さとの比較を考えた。
この日本映画とアメリカ発の映画の「違い」の根本的な「核心部分」ってなんだろう。
つまるところ、「文化の蓄積の差」なのだろうな。
文化—って。まぁ、日々暮らしていく様式、暮らし方、暮らしていく上での楽しみ--とでも言えばいいのかな。
日本という国がいつ出来上がったものやら分からない。
まぁ、2千年前くらいなのだろうな。
核心部分は、日本という国ができあがって以来、異民族から支配されたことがない—ということなのだ。
価値観などが逆転したということがない。
今も、奈良時代の「蹴鞠」という行事が残っていることとか、先日、遣唐使が中国からもって帰った王羲之の書の写し(なんといっても紙なのだぞ)が発見される—という話を聞いて、その「蓄積ぶり」に驚かされる。
上でふれた「文化」って、儚い・壊れやすいものなのだろうな。
中国とか西欧諸国などがいい例か。
一時期、民族として・国として栄華を誇っていても、異民族から攻撃されるとか、隣国から攻撃されるとたちまち、「文化」というものが雲散霧消する。
あぁ、今のシリアなどもそうか。(混乱の中で逃げまどう時、本などを抱えて動くことはできないしなぁ)
日本人が今、様々な発想、様々な発明ができるのは、「文化の蓄積」がそれほど大きいからなのだ。
地頭が他国より良いとかという理由ではあるまい。
蓄積してきた二千年という長さの「文化」というものが、今の日本人の発想の「背景」にあるからだ。
そのことが、日本映画の筋の「複雑さ」として顕在化し、アメリカ発の映画の筋の単純さに比較されるのだ。
ユーラシア大陸の東端から更に海に入った「辺境の地」にあったからこそであろう。
その地理的条件に感謝すべきであろう。<まぁ、数千万人というマスが住めるだけの大きさの島であったということも幸運だろうな。これが小さければ台湾とかフィリピンということになろう>
い、いや、話がとんでもないところへ。
粗筋に帰れば、この映画、以前のルパンvsコナン という映画を見ていないと、どうも続き具合がよくないようだ。
前回の映画を「踏まえた」形式となっているのだろう。
筆者は、前回のルパンvsコナン を見ていないしなぁ。
う、この映画、でてくる人物が多くて大変だ。
うまいタイミングで、レギュラーの人物を登場させることに苦労しているようだ。
でも、次元とコナンの会話とか、灰原と峰不二子の会話なんて、辛辣で皮肉もきいていて面白かった。
で。
全体をさっと回想してみても、「結局、なんだったんだ?」と、筆者には明確には理解できない。
どうやら、ルパンに因縁のある「鉱石」を誰かが欲しかっていて、それが誰なのか—ルパンが知りたがった--ということが核らしいのだが。
え、 上でふれたように、筆者にも全体の流れがぼんやりとしか分からない。
まぁ、それはともかくとして、いろんな場面が目まぐるしく変わって、面白いということには違いはない。
ルパン三世と名探偵コナン—か。
日本の国民的キャラとなった—ということは確かだし、その名前を出せば、必ず、ヒットするという「伝説」は当分続きそうだなぁ。