2015年2月10日火曜日

雪山登山での遭難も、自己責任だ。

イスラム国であろうが、雪山登山での遭難であろうが、基本は自己責任。
 両者の違いは、日本国内か外国か—の差ぐらいかな。

 雪山登山の場合は、日本国内であるから、なんとか救助される(種々の方法で)可能性が高いというだけ。
 冒険家の植村さんは、カナダのマッキンレー山に厳冬期に登ったまま、行方不明だ。
 救助の方法もなかった—ということだろう。

 ベースにあるのは、繰り返しあるように「自己責任」ということ。

 以下、新聞から抜粋。

 中東の危険な地域に赴き、結果テロリストに誘拐され被害に逢った人たちについて「自己責任」という言葉を使う論議が取りざたされています。
 調査によれば83%の人が「自己責任」と言っている。
 そのように印字されていました。
 これはどういうことか、考えて見なければ、と思った。

 戦闘地域に入って取材する従軍記者、カメラマンなどの職業があります。
 彼らは自己の判断においてそうした仕事に就き、危険な地域の情報をもたらしてくれます。
 情報は、様々な判断を下すうえで決定的な意味を持ちます。
 そういう仕事は「自己責任」で行われるものでしょうか?

 情報を得る側は、日本にとどまりつつ、日本語ベースで中東の状況を知りながら、何かあると「自己責任」でことを済ませてしまうのか?
 情報は湯水と同様無料なのでしょうか?
 欧州では飲料水は買って飲みます。
 同様に情報も放っておけば天から降ってくるとでも思っているのでしょうか?

 例えばA国の閣僚や外交団がB国を訪れたとして、テロリストの爆弾で命を落としたとしましょう。  このとき「自己責任で勝手にやられた」という表現が成立するか?そういう話にはならない。

 では、民間人なら自己責任で、内閣総理大臣の意思であれば国の責任にさせられるのでしょうか・・・?

 自己責任「論」なんて話が、文脈で出てくること自体が水準以前であることが垣間見えてくるでしょう。

 登山などで行楽地に赴き、そこで遭難する事故の報道があります。
 自分の責任で観光などに赴いてトラブルに巻き込まれるわけですが、「自己責任」という言葉が使われるでしょうか?

 遭難者の救助には、多くの人が協力し、税金も投入されます。
 「自己責任だ。税金の無駄遣いはやめよ」といった議論がは、目にしない。

 中東と観光地、どちらが「自己責任」か、言うまでもない。
 観光と仕事として戦地に赴くのでは重みが違いますし、社会が享受する価値の性質も異なる。
 世論というのは無責任で、気分で右にも左にも流れてしまう。


▲補足、感想など

 なにを言っているやら。
 頭の悪い議論ではある。

 まず、個人と首相とは、資格が違う。
 首相は、国を「代表」している。首相は、日本国そのものなのだ。日本国民一億二千万人そのものなのだ。
 比較する議論がおかしいかろう。

 仕事でどうのこうの—というのもおかしい。
 仕事の選択は、その個人の自由意志で選択したものであろう。

 その意味で、観光でと仕事で—というものに差があろう訳もあるまい。

 ことの核心は、
 観光であれ、仕事であれ、日本人であれば、日本国が生命と安全をなんとか保護するように努力はする—ということ。
 冒頭でふれたように、日本国内であえば、雪山での遭難であっても「生命を保護することになんとか手が届く場合が多い」のだ。まぁ、届かない場合も多いが。
 しかし。
 外国のしかも戦闘地域では、「日本国の手が届かない」というだけのこと。

 基本は、観光であれ仕事であれ「自己責任」だ。