2017年8月22日火曜日

日本には左翼というものがいない

左翼ねぇ。
 戦後すぐぐらいはいたのだろうなぁ。

 ところが、米軍が立案した戦後レジームというものが機能しはじめると、左翼 → evenki族 にすりかわっていって、いつの間にか日本の政治の対立軸が 日本人 対 evenki族工作員 という構図となってしまったのだ。

 そりゃ、今でも、公明党とか、自由党、社民党、共産党とかあるよ。
 でも、実体は、どれもこれもevenki族工作員そのものだ。

 だから。
 日本には左翼も右翼もない。
 あるのは、日本人 対 evenki族工作員 という政治的対立があるだけだ。
 そもそも、中国人はそのことをよく知っているではないか。
 今度の加計学園騒動で、evenki族工作員によるキチガイじみた「安倍おろし」があったが、あのevenki族工作員の後ろで、中国人が糸を引いていたろう。

 あの潰れかけの朝日新聞でも、中国からの工作資金でカツカツ、息をつないでいる状況だろう。
 充分に日本の状況を知った上で、おとぼけの記事を書いているのか。

 以下、中国の新聞から抜粋。

 日本の右翼化が政治的な現実となった、根本的な問題は、日本の「左翼」勢力はどこにいるのかということである。(文:文豊・南京大学歴史学院博士課程大学院生)
 第2次大戦前の日本には「左翼思想」の基盤はなかった。
 19世紀末には、西側の社会的な思想が浸透し、左翼政治団体や左翼政党が生まれていた。
 こうした組織は、マルクス主義の理論を導入しただけでなく、中国革命を後押しすることともなった。だが西側の思想を導入しただけでは、東アジアの島国にそれが根付くことにはならなかった。

 自由主義の政治思想が芽生え始めた時、甲午戦争(日清戦争)の総計画者である伊藤博文は、アメとムチの両方を使ってその弾圧をはかった。
 長州の大軍閥の山県有朋はさらに、日本近代地方体制の設計のために画策し、政党間の争いが国家の根幹を動揺させるのを防ぐという建て前で、民主の防波提を築いた。
 共産主義は言うに及ばず、西欧各国の自由主義思想でさえ、厳しく取り締まった。

 1889年にまず「欽定憲法」を作り、1890年に第一回議会を召集し、憲法を国民の代表らに「恩賜」するというのが、近代日本が西側の憲政を模倣した道だった。
 日本にも28年後、初の政党内閣(政友会内閣)が誕生した。これによって「大正デモクラシー」の時代が始まった。

 日本の右翼勢力は、近代日本民主政治の代表となったこのような政党を許容することはなかった。
 原敬(1921年暗殺)や濱口雄幸(1930年負傷)、犬養毅(1932年暗殺)は自らの血によって、日本の政党民主政治が14年の惨憺たる歩みの後に激しくもその短い生涯を終えたことを示した。
 第2次大戦は日本にとって明治維新以来の歴史的な転換点と見られてきた。
 マッカーサーの指導の下、日本の戦後の民主化改革は、日本の政界の姿をある程度変えた。
 左翼革新派の代表としての日本社会党が結成され、共産党も再建された。
 保守派の側では自由党や協同党が次々と登場した。
 日本の政党政治がよみがえったかのようだった。だが戦後の米ソ対立によって始まった冷戦によって、日本の民主化改革は大きくその勢いをそがれることとなった。

 日本の右翼の罪が問われることがなかったのは、冷戦期において米国が自身の勢力の拡張により、ソ連に対抗し、中国を抑制し、世界の霸権を打ち立てることを必要としたためである。
 在日米軍最高司令部は日本の右翼勢力を支持しただけでなく、日本の左翼を弾圧した。
 米国にとって、左翼の「革新派」分子は、モスクワの支持者と見られたのである。

 このように戦前は発育不良、戦後は発育失調で、今では発育畸形に陥った日本の左翼は、日本政治にとっての脇役にすぎなくなった。
 1990年代には、バブル経済の崩壊によって、日本国内の左翼政党には復活の兆しが見られ、自民党一強の「55年体制」も終わったと多くの人が考えた。

 だがこれらすべては経済的な動揺が政治レベルに表れた微弱な波動にすぎなかった。
 実際には、政権は自民党を筆頭とする右翼勢力の手に握られている。日本の右翼の基盤は堅固で、日本経済の動揺の影響を受けることはなかった。
 今日に至っても、安倍首相による改憲という政治的茶番、防衛白書のでたらめな結論、一部政治家の歴史問題に対する恥知らずなたわごとが続出している。
 これは一体何を意味しているのか。

 右翼の一強は、日本においては歴史的事実であり、今日においては政治的な現実である。
 自民党などの右翼勢力と互角に戦うことのできる左翼勢力が日本で見つからない今、議会民主制の力の均衡という視点から見れば、日本政府の基本的な政策の方向性は、絶対的な優位を占める政治集団による自身の利益の最大化の追求の産物になるしかない。

 西側の民主制の論理に基づいた日本の議会政治は、右翼政権を依然として「合法的」に生み続けている。
 その政治が求めるものも、日本の右翼の利益の要求をめぐる内外政策の結果にならざるを得ない。

 これに対し、日本の左翼勢力が議会内の政治的均衡という機能を果たせず、カギとなる政策の分野で声を失い、社会的な正義の力を動員する力も失っていることはいずれも、日本の政党民主制が内部で崩壊しているという残酷な現実を裏付けている。

補足、感想など

 ふん。
 英国の産業革命の200年も遅れるような大ノロマ頭脳の民族が、もっともらしい口を叩いて。
 自分で言っていて恥ずかしくないか。
 そもそも、未だに識字率30%強、国民の半分以上が、無学文盲、無知蒙昧な無頼の徒ではないか。
 選挙制度もない、野蛮国の民族が、日本の選挙制度を、日本の議会制民主主義をなんたらと、オオボラ・ハッタリ・コケオドシを言うなよ。

 無知蒙昧・無学文盲の割りには、態度がでっかくて、不遜な態度をとる—まさしく黄巾族そのものだな。
 日露戦争以後、日本がもっていた満州鉄道の利権を守るために満州地区に日本人が入っていったが、上でふれた無頼の黄巾賊達と小競り合いが続いたのだ。
 これがために、日本はやむなく、満州国という国を建国せざるを得なくなっていったのだ。

 識字率30%で、上のような態度か。
 なるほど、識字率一桁の時代ってどんな状況だったのだ。
 あぁ、元アメリカの駐日大使であったライシャワー博士が、若い頃(1930年代だろうなぁ)、中国の上海などでの中国人をなんとも憐れむべき存在だと書いてあったが、推測がつきそうだ。(無気力にホイホイ歩いて--てな感じかな)

 つまり、これが20世紀前半での中国人の真の姿なのだ。
 漢字というものに、完全に圧し潰された中国人の「姿」だ。
 その直視もできないほどの惨めな歴史を恥ずかしい思うばかりに、他者に対して返って、ハッタリ、コケオドシ、オオボラを吹きつづけるのだ。
 日本人相手の「捏造南京大虐殺」もオオボラの一つだろう。

 中国のオオボラの結果であろう、不動産バブルが近い将来、弾けるだろう。
 不動産価格の暴落、中国人民元の底もしれないほどの暴落が見られるだろう。

 ハッタリ・コケオドシ・人食い中国人の阿鼻叫喚の絵がそこら中で見られそうだな。

 *上で、識字率1桁の時、中国人ってどんな生活をしていたのだ? と問うた。
  ペルーで、中国人の埋葬が見つかったという記事があった。
  それを紹介したい。

 --ここから--

 2017/08/25(金) 
 ペルーの先コロンブス期の遺跡を調査している考古学者チームが、19世紀末─20世紀初めに埋葬された中国人労働者16人の遺体を発掘した。 
 1854年に奴隷制が廃止された後、ペルーは19世紀に最も多くの中国人労働者がやってきた場所の1つとなった。 

 発掘作業を率いる考古学者ロハナ・ゴメス氏は、今回見つかった中国人労働者は19世紀末から20世紀初頭にかけて埋葬され、「極めて厳しい」環境で近くのプランテーションの綿花収穫などの作業に従事していた可能性が高いと述べた。 
 ペルー文化省によると、20世紀には、一般に中国人労働者はリマのカトリック系墓地に埋葬することが認められず、中国人たちは急ごしらえの埋葬場所を作るしかなかった。 

 16人の遺体はイチマ人のピラミッドから発掘された。
 このピラミッドは、当初イチマ人が1000年頃から統治し、その後インカ領となった後、スペインが占領。さらにその後はイタリアの移民がブドウ畑にしていたという。 

 --ここまで--
 これが、識字率1桁台の時代の、中国人の姿だ。
 殆どが、無知蒙昧・無学文盲の無頼の徒のごとき、中国人の姿なのだ。
 現在の中国人にとって、「正視もできないような姿」なのだろう。
 この歴史に、現在の中国人は目を背けているのだ。