▲どのあたりから。
この映画。
日本の時代劇というもののもつポテンシャルの高さというものに、改めて驚かされた。
桜田門外の変—という日本史に残る事件がある。
この事件で、攻撃した側と攻撃された側の各一人が生き残っていたら—と着眼しただけで、様々な人間模様が浮かんでくる。
原作者の浅田次郎さんは、そこになにか「話の核」を見つけたのだろう。
確か、桜田門外の変は、1860年だった。明治維新まであと8年。
吉村昭さんの小説では、襲撃した水戸浪士のうち、明治まで生き延びた人がいたと記憶する。
但し、親類の床の下に隠れて—とかではなかったかな。
いや、話がどこかにいった。
今のハリウッドの映画の「種切れ」状態をみて悲しくなると同時に、日本の時代劇は世界的なヒットこそめざせないが(英語と日本語の格差は大きい)、「タネの豊富さ」ということなら無限大にあるなぁ、と感じる。<これをガラパコス化というなら、そう言え。胸を張って、日本の時代劇のガラパゴス化を誇りたい>
本論に戻って。
映画の粗筋にふれながら、感想を箇条書きとしたい。
あ、どこにこの映画の核心のようなものがあるのかなぁ。
主人公は、井伊藩の藩士で、大老井伊直弼の警護役だ。「生命にかえて殿様をお守りします—と約束した人」なのだ。
い、上でふれた桜田門外で、水戸浪士約20名ぐらいに襲撃され、井伊直弼は殺害された。
この襲撃に対して主人公はたまたま生き延びてしまう。
殿様を警護できなかったということで、主人公の両親は自害、本人も切腹を願うが、許されず、上役から襲撃犯の首をもってこい—と命令される。
う、こうして長い長い襲撃犯探索の旅が始まる。明治になっても---。
え、粗筋はこれくらいにして。
上で約束した人だと書いた。
明治となって、井伊藩すらない状態でも、その約束も守ろうとするのだ。
命令がどうこうではない、意地とか誇りとか、約束したから--そういうものが主人公を支えているのだろう。
お、襲撃犯の最後の一人が、明治となり車屋となってひっそりと暮らしていた。
そして、表題の柘榴坂でこの二人が会うことになる--。
か、観客は、筆者と同世代の人ばっかりだった。
筆者の好きな松本零士さんの「コックピットシリース」を時代劇に置き換えたような話だな、とも思った。
き、この映画がヒットするのかどうか分からない。
でも、筆者はこういう映画が好きだな。
約束したことをトコトン守ろうとする--バカといえば、バカ。愚かしいといえば確かに愚かしい。
他人からどう思われようと、どうバカにされようと、「約束を守る」ことが主人公には一番大事だったのだ。
その直情さが、筆者の胸を打つ。